上野千鶴子編『キャンパス性差別事情〜ストップ・ザ・アカハラ』(三省堂、1997)

 「セクハラ」という言葉は、一般に使われる言葉となったがその意味するところは明確には決まっていない。ちなみに1993年に労働省が発表した報告書による「セクハラ」の定義を示す。セクハラとは「相手方の意に反した性的な性質の言動を行い、それに対する対応によって仕事を遂行する上で一定の不利益を与えたり、又はそれを繰り返すことによって就業環境を著しく悪化させる」こと。
 では「アカハラ」こと「アカデミック・ハラスメント」とは何であろう。「セクハラ」は「アカハラ」の一部だが、全部ではない。そして「アカデミック・ハラスメント」とは広義の「職場の性差別」のうち、「研究職に固有の性差別」と本書では最初に定義している。
 本書は2部構成になっており、1部は「アカハラ」が起こる理由や取り組みなどについての8人の論と、匿名の大学院生の生の声を集めた章の合計9章。2部は「当事者が語るアカハラ−私の場合」と題して実際の事件や裁判の回顧記録が4章分書かれている。そしてこの本のセールスポイントは各章、筆者が異なり独立しているので「アカハラ」の事例や先行論として、別々に使うこともでき、且つ全体として大学(または研究機関)での性差別の実情をいろいろな視点で見ることができることにある。このため、1章ずつの論評と全体を通した書評という形で進めていきたい。そしてこの本の本体になると思われる1部の内容を中心に紹介・評論していく。

 第1章 アカハラを解決困難にする大学社会の構造体質(江原由美子)
 ここで、大学の構造や体質といったものにアカハラを発生させる原因があると筆者は述べている。大学社会では加害者と被害者は単に組織上で上下関係にあるだけでなく同じ「研究者集団」という一つの「ムラ社会」に生きていることに目を向け、加害者はこの点で二重の権力を行使できることを指摘している。

 第2章 知の生産に深く埋め込まれたジェンダー・バイアス(大沢真理)
この章は著者自身の研究暦を素材に述べ、研究者としてやっていくことの厳しさを体験的に語って、その中に見受けられるジェンダー・バイアスについて言及されている。しかし、実際の体験記として、女性研究職の実態を紹介していることは世間から見えにくい情報で「なるほど」と思わされる部分はあったが、そこから導く一般的な論はいささか説得力が欠けるのではないかという感想を持った。

 第3章 女性院生座談会「大学院の実態を切る!」
ここでは、4人の院生(自然科学系1人、人文学性1人、社会科学系2人)による自由な討論が展開されている。第1章・第2章の理論の裏付けとしてこの第3章に挿入されたようだ。女性にとっての大学院や研究環境で感じるストレスや教授(もちろん男性)モラルの実態などが紹介されている。
 理論の部分での「アカハラ」の事例が特殊なものではなく本当に起こっているのだという実感を感じさせる章となっている。

 第4章 理科系女性研究者の問題(石渡真理子)
筆者は女性問題の専門化ではないが、日本の国立大学の中で最大の教員数を誇る東京大学という職場で30年以上働いてきた一女性研究者の視点から見た「アカハラ」とともに1994年、東京大学内の性差別の実態を知るため助手以上の女性教員を対象に行ったアンケート調査の結果もふまえ進められていく。その結果この章は調査報告書のような感じを受けた。主な内容は、女性の大学教官はただでさえ少ないのに「女子は理数科に向かない」、「女性の昇進できない理由は業績が低いため」、「女性は視野が狭く、社会性がないから、大学運営への参加は無理」といった偏見から理数系の学部で特に女性教官が少ないという状況に陥っていると筆者は述べている。

 第5章 日本学術会議での性差別への取り組み(加藤春恵子)
この章は学術における国会といわれる日本学術会議における女性差別への取り組みを大学の女性教員数などの資料と合わせて紹介している。

 第6章 キャンパス・セクハラ対策の落とし穴(高橋りりす)
 筆者は1981年から84年までアメリカの大学院に留学し、その時指導教官からセクハラを受けたという経験の持ち主である。アメリカの大学には日本と違ってセクハラの窓口もガイドラインもある。しかし、「アメリカのセクハラ対策は進んでいて、日本は遅れている」ということを言っているのではない。
 アメリカのセクハラ対策というのは、被害者救済のためでなく、訴訟社会アメリカで大学が訴えられないようにするための対応策だったことを語っている。そして経験を語るのみに徹している。それは新しいセクハラ対応策を提案しても、既に本当の意味での「当事者」でなくなっている筆者にその役目はなくそれこそ「セクハラの専門家」の仕事であると筆者は述べている。
 この筆者の態度こそ、アメリカで解決を求めてあちらの窓口、こちらの窓口と相談・抗議に行ってもたらいまわしにされ、日本に帰ってからも自分の経験をきちんとした形で話す機会が与えられなかった筆者の経験から出た「アカハラ」の本当の姿であり、解決の難しさを世に(少なくとも私自身に)訴えることが出来たと評価したい。

 第7章 大学におけるセクシュアル・ハラスメントへの取り組み(田邊玲子)
 第9章にある、いわゆる「小野裁判」(1993年の新聞報道により発覚した京都大学教授によるセクハラ事件にまつわる一連の裁判)の際の同大学女性教官懇話会の対応について書かれている。第9章とともに裁判の経過・判決やその時の京都大学側の対応を事実のみを書き綴ってあるので、ここでは要約は省略したいと思う。ただ、「アカハラ」を初めて扱った裁判として、この一連の出来事は「アカハラ」を理解する上での出発点になることだけは言っておきたい。(それ以前に企業を相手どった「セクハラ」裁判は存在した)

 第8章 ストップ・ザ・アカハラ−その傾向と対策(上野千鶴子)
 この章は本書のなかで、編者による総括という位置づけになっていると思われる。ここで東京大学女性研究者懇話会有志のあいだで積み重ねられてきた3つの提案が記載されている。以下にその提案を簡単に紹介する。その1、あたりまえのことだが、女性研究者がアカデミズムのなかでどのような状況に置かれているかを把握するために情報公開は不可欠である。その2、何が「アカハラ」であるかを男女の当事者がともに認識していくために「信用のおける第三者の機関による」実態調査がなされなければならない。その3、男女平等委員会の設置。大学の研究・教育をジェンダーの視点から判断する調査・相談・調停・勧告の機能を持った機関の設置が必要。しかし、この事が大変困難であることも述べられている。

《総評》
 全体を通しての感想としては、学問といえど金がなければやっていけないということを強く感じた。今日のような男性社会で「良識の府である大学こそ男女平等が実現しうる」なんて奇麗事は夢物語もいいところで、教授も研究の実績と科研費獲得に躍起になっていて「女性問題など二の次だ」というのが現実だ。大学という組織がどうしても抜け出せない泥沼にはまっているという実情を垣間見た気がする。この本は女性の視点から、「アカハラ」を突破口として日本の大学(または各研究機関)という特殊なものを内部から告発していると言えるだろう。

(評者:宮脇雅英)
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