『メディアのミクロ社会学』 渡辺潤著 1989年

 現在、私たちの身の回りには、様々なメディアが存在し、ごく当たり前にそのメディアに接触している。本書では、それらのメディアがどのような特徴を持ち、私たちの自己意識や人間関係にどんな影響を与え、どのように変えようとしているかということを主題にしている。
 1章では、電話におけるコミュニケーションを取り上げている。電話は距離(物理的・社会的)を超えて人と人を結ぶ。しかし電話はまた、人と人との間に壁を作り、遠い距離を感じさせるもの、「リアリティ」を実感しにくいメディアであるということを、直接対面して行うコミュニケーションと対比させながら描き出している。
 2章では、オーディオ装置、特に音に限定され、耳だけで受容されるメディアに焦点があてられ、その中でもラジオとウォークマンについて詳しく述べられている。
 ラジオについては、その接触の仕方が、集団的なものから個人的なものへと変容していることがあげられている。しかし、それはラジオなどのオーディオ装置に限ったことではなく、人々の生活そのものが孤立化していることもあり、メディア接触の孤立化は、今後ますます増える傾向にあると論じられている。
 そしてウォークマンについては、ゴフマンの「儀礼的無関心」という概念を用いて、ウォークマンが一般に浸透し、交通機関や町中で当たり前に使われるようになり日常化した背景の説明を中心に書かれてある。
 3章では、写真というメディアについて述べられている。「写真は現実を写し出す」というが、カメラの前で人はあるがままではいられなくなり、人々の関係はそこにカメラが置かれれば瞬時に雰囲気が一変してしまう。そのようなことがなぜ起こり、それはどういう特徴を持つのか。この章では、そんな疑問と関心、また写真に付与されている客観性の神話や記録としての価値の再考といった問題を取り上げている。
 4章では、テレビについて述べられている。テレビは現実を映像と音で再現し、そのリアリティ感覚は他のメディアの追随を許さないとされている。しかしどんなに遠くにあるものでも、近くにあるものでも、それがテレビというメディアを通して映し出されると、決して手に触れることができないイメージに変わる。この事からテレビの特徴は「最大の現存であると同時に最大に不在」であるとここでは要約されている。
 またテレビというメディアには、テレビに映る世界とそれを視聴する世界が存在する。その二つの世界が相互に作用しあっており、そこには「参加」「覗き」「傍観」といった三つのコミュニケーションスタイルがあるというのが著者の考えで、それぞれのコミュニケーションについて詳しく書かれてある。
 5章は、「ペンと自己」と題され、「書く」ことが人々やその関係にもたらした影響を、主に日記と手紙とミニコミというパーソナルなメディアを手がかりにしながら見ていき、さらに活字離れと言われる最近の傾向について、ワープロやパソコンの普及との関連も含めて考えている。
 6章では、活字メディアについて、その中でも「読む」という行為を中心に述べられている。活字は、これまで重要な役割を果たしてきたメディアであった。しかしここ最近では、毎日新聞を読む、読書をする習慣をつけねばなどといういう制度的・儀礼的なメディア接触と、雑誌等にみられる面白さこそが全てという娯楽的な接触という二点に、活字を読むことに見出される意味は分化している。しかしこのことが活字文化の衰退なのではなく活字文化の大衆化と呼べる現象なのだと論じられている。

 この本は、10年近く前に書かれたものだけに、今(1998年)とは状況がやはり違っているところもあり、読んでいて「これは違うな」という所もあった。(特に1章の電話と2章のウォークマンについて述べられている部分)
 しかし、身近にあるメディアを題材に、メディア論とコミュニケーション論という二つの関係についてわかりやすい言葉で書かれているので読みやすいものであった。

(三井美穂)
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