中川昌子著『フレームのない光景』(主婦と生活社、1998年、239頁、1400円)

「フレームのない光景」ー青い空にどこまでも広がる青い海。読者はこの表紙を見て著書の内容を果たしてどこまで想像できるか。私は読み終えた瞬間そう強く感じたものだ。これは、不慮の事故で視力を失ってしまった働き盛りの男性が、ハンディを乗り越えて昔からの趣味であった写真を撮ることに目覚め、人々に様々な感動を与える姿をつづった彼の心の軌跡である。
 彼、伊藤邦明氏は1993年名古屋に生まれる。県立愛知工業高等学校在学中から写真を始める。卒業後、地元の造船会社に入社、主に船舶の電気設計を担当する。その後、勤務先が大手重工業会社と合併。82年東京本社に転勤。90年巡視先の倉庫で転落事故、九死に一生を得たが、視覚、嗅覚を失う。そこから彼の精神と肉体の葛藤が始まるのである。目が見えなくなり、体が不自由になったことで、自分自身に自信がもてなくなり、幾度も挫折を味わった。そんな時、伊藤氏の支えとなったのが、妻の七重さんである。彼女の存在がなくては、今の伊藤氏はないといっても過言ではないだろう。途中、挿入されている彼女の日記が読む者の胸を打つ。著書は夫婦の愛情の日記とも読み取られるかもしれない。2年間のリハビリを経て伊藤氏は普通の生活に戻ることが出来るのだが、そこでの夫婦のやりとりがなんとも感慨深い。七重さんは目の見えない伊藤氏の代わりに毎日、新聞を読んで聞かせる。「今までテレビ欄と三面記事から読んでいたから、本当頭がよくなりましたよ。」と七重さん。そして毎日外に出て、色んな場所へ行くということを日課にする。デパートに行って買い物をしたり、近所まで散歩に出かけたり…。そんな時ある友人のカメラマンから写真を撮るよう勧められる。初めはシャッターを押すことに抵抗を感じていた伊藤氏だが、94年妻へのプレゼントとして考えていた「ピースボート」(ただの観光ではなく社会参加をかねた84日間15カ国世界一周の旅。)の船旅を機にカメラを再び持つことを決意する。勿論伊藤氏一人だけでは写真は撮れない。そう、七重さんが被写体の前に立って、自分の目に飛び込んで来る色、形、身体で感じる匂い、雰囲気を具体的に声にだし言葉に置き換えて説明するのだ。まさに二人三脚。「主人が最初のシャッターをおした時、私の目には、シャッターをきった指がぶるぶると震えているように見えました。涙が止まらなかったですね。」と七重さん。伊藤氏は自分の心に打ち克ち、挑戦へのシャッターを切ったのだ。写真は目で撮るものではない。心で撮るものだ。今まで写真を撮るのが好きで、友人や家族の写真をただ撮っていた自分がどんなにちっぽけな存在であるかをひしひしと感じた。伊藤氏の才能と感性にはただただ脱帽するばかりである。巻頭を飾っている旅先でのカラー写真を見て読者もそう感じることであろう。その長い旅の後、友人の勧めで、全国で写真展と講演会を開くことになる。そこでは様々な人が伊藤氏の写真を見て勇気や希望や夢を与えられるのである。その後95年国連リハビリテーション会議・芸術展に日本代表として出品。96年に再び「ピースボート」で18カ国世界一周の船旅中、8ヶ国9会場で写真展を行う。
 伊藤邦明という人は正に超人だ。これほどまでの精神力・才能・感性を兼ね備えた人は本当にまれではないだろうか。「わたしは、幸せものです。目の見えないことは大変に不自由ですが、しかし不幸ではありません。良き妻、良き友、よき先輩に励まされて生きている、そのこと自体が大変に幸福なことだと思っています。」(伊藤氏談)
 本書は、著者が伊藤氏との交流の中で、見、聞き、感じたことが率直につづられていて読者に伊藤邦明という人間をとおして「生きる」ということを改めて強く考えさせる。それでも、決して重い感じにならず、むしろすがすがしい読後感を味わえる。是非、老若男女に読んで、そして感じて欲しい1冊である。

(三田村英恵)
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