渡辺 潤 著 『メディアの欲望−情報と物の文化社会学』 (新曜社 1994年)


 私たちはモノやメディアに囲まれ、普段の生活をおくっている。そして今ではモノやメディアは私たちにとってアイデンティティの確認や他者とのコミュニケーションに不可欠の道具となってしまった。本書ではそんなモノやメディアに囲まれた生活を具体的に描写し、モノやメディアが人間関係や自己の確認をするのにどれだけ深く関わっているのかを分析していく。
 第一章ではまず人とモノの関係について述べられている。機械によって、人間関係や生活がつまらないものになったことや、人はモノを贈ることによって人間関係を確認していることなどが指摘されているが、特に注目したいのはヒトのモノ化とモノのヒト化についてである。最近の子どもはモノを擬人化し、モノと友達関係になりたがる傾向があるという。また逆に生きた人間をモノのように扱おうとする。これを著者は、いい人間関係をつくりだせず、その結果モノに引き寄せられてしまうからであると分析する。
 第二章では、身近にある様々なモノの機能について音楽、テレビ、冷蔵庫など多くのモノをとりあげて説明している。特に車について見てみると、車は居心地のいい空間であり、自分を表現する手段であるという点で「メディア」であると著者は指摘する。車はファッションやステータスシンボルとして人の欲望をかきたてる。また、他人から孤立するためにつかわれると同時に他人とに関係をつくりだす場でもある。著者は快適な空間としての車への欲望は、家を持てないことへの代償であると考える。

 第三章はメディアとリアリティについて、ここでまずとりあげられているのが、ブーアスティンの「擬似イベント」という概念である。ブーアスティンはメディアによる「擬似イベント」が「実像」と「虚像」の違いをあいまいにしてしまうことを問題とした。そしてもう一つとりあげられているのが、ボードリヤールの「シミュラークル」という概念である。この「シミュラークル」が支配している現実では、人間は社会からこぼれおちた「実在」を探し求めているという。他にもいろいろな例をあげ、オリジナル不在の時代である現代を分析する。
 第四章では、パソコンが誕生し、発展してきた経緯がくわしく書かれている。最後に著者は、テレビによって顕在化しはじめた第二のコミュニケーション革命が、コンピューターによって、時代を変えるものになると指摘している。
 第五章では戦後のベストセラーについて書かれている。見田 宗介は敗戦直後から1962年までを三つの時代に分け、「戦後第一期」(1946ー1950)を「人間の生き方に対する関心の時期」、「戦後第二期」(1953ー1958)を「恋愛とセックスに対する関心の時期」、「戦後第三期」(1959ー1962)を「実用的な知識への関心の時期」として分析している。著者はその後のベストセラーがタレント本や口語体で書かれている軽いものに変わってきたことを指摘し、これは私たちが「読書の抑圧」ではなく、「読書の快楽」を発見する余地をもったのだと解釈している。
 第六章では若者文化とメディアの関係について述べられている。著者は若者文化が60年代の「理想」的側面の顕在化、70年代の「シニシズム」的空気、そして80年代の「エゴイズム」を基準にした行動の仕方と、文化の機能的な要素である「超越」「自省」「適応」という三つの要素をそれぞれ強調させながら推移してきたとし、現在の若者文化を一つの若者文化の終盤であると指摘する。メディアが提供する情報によってしか自分であることを確認できない現代では「若者文化」はもはや有名無実化しているのである。
 本書では「情報とモノの文化社会学」とあるように、マス・メディアだけでなくさまざまなモノや道具の「メディア性」に注目した。本書を通して書かれているのは、私たちがモノやメディアをたよりに関わりあい、また他人から孤立している現在の状況である。メディアの発展によって、私たちはメディアやモノによってしか自分を語れず、他人との関係を保てなくなっている。私たちはそれをあたりまえのことのように感じているが、これから先私たちがどのようにメディアと関わっていけばよいのか考えさせられた。

(利村恵里香)

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