桜井 哲夫 著 『ことばを失った若者たち』 (講談社現代新書 1985年)


 1980年代に顕著に現れた若者たちのコミュニケーション不在の一方通行のことばや、単語による会話などの「ことば」の混乱を1950年代頃に出現した若者文化などをもとに探求している。
 まず、1章では、通学期間の延長に伴って、1950年代後半に生み出された「青年( 若者)文化」について述べている。「中間文化」とも呼ばれたこの若者文化は、快適で平穏無事な私生活に重きを置くもので、何かをしたいからする、という「個人」の欲望を肯定するものであった。
 2章では、このような個人の欲望を肯定する個人主義は、一面では、常に不安定なものであり、若者たちの「自分は何者なのか」というアイデンティティ探求の旅は、高学歴化の進行する60年代に一挙に拡大した、ということを述べている。
 3章では、核家族化の進行する中で、人工的な教育装置となった「母」について述べている。また、この章では、日本社会のあいまいな人間関係や、母性的言語としての日本語によるコミュニケーションへの攻撃に向かった若者たちの個人主義について、大学闘争の話を挙げて述べている。
 4章では、前章で述べられた日本語への反発や、マスメディア支配の下での「ことば」の貧困化によって起こった、「ことば」への不信ということについて述べられている。また、この章では、激しい世代闘争に恐怖を感じた日本社会は、「対立の排除」という心理的機制に支配され始め、いっそう社会関係があいまいになったことも述べている。
 5章では、前章のような状況の中で、日本人の人間関係を規定してきた「あいまいな境界」が崩壊し始め、また、相手との心理的な依存関係(「甘え」)の場もなくなりつつあることを述べている。また、個人主義の論理(「自分を支えるものは自分一人だ」)が低年齢層まで拡大し始め、子供たちが仲間との共同性を維持できなくなってしまった結果が、校内暴力やいじめにつながった、とも述べられている。
 6章では、「あいまいな境界」が崩壊し、コミュニケーションが希薄化していく中で、人々は「モノ」を唯一のより所とし、さらには自らのからだまでもが「モノ」化され、そしてからだに対する現実感が失われていることを述べている。また、自殺する子供の増加も、これが原因ではないか、と述べている。
 7章では、境界や「甘え」の空間、さらには共通の約束事の世界(意味の世界)の崩壊によって、「ことば」は依存すべき「支え」(象徴秩序)を見失ってしまったことを述べている。
 ちょっとまとまりがないように思えるかもしれませんが、以上が大まかな内容です。
 「ことば」ということが一応キーワードになっていますが、読んでみると、むしろ近代化の果ての副作用として現れた人間性やコミュニケーションの異常や問題点、もっと過激に言ってしまえば人間性や人間関係の崩壊の危機ということの方が強く読み取れた。このような現象が、ここで述べられたような一連の現象の結果として起こったのであるか、ということは確かではないが、個々の現象については80年代を生きてきた自分としては納得できるものも多い。
 10年以上前の著書ではあるが、このような現象が90年代の現在になってなくなったわけではなく、何ら解決されないまま残っていたり、さらに進行していたりするものもあるので、今読んでも充分問題意識を持てる。したがって、現代の若者や、若者に限らず現代の日本人の人間性や人間関係を理解する上での参考になると思います。

(松浦 志耕)

目次に戻る