宮台真司:『制服少女たちの選択』(講談社、1996)


 最近はインタビュー調査をきっかけとして、青少年非行、特に女子高生の援助交際の実態がある程度わかるようになったが、それを社会問題になる原因を探究する時、しばしば学校、家庭、地域社会の枠に囲われて、外部的な立場からみる一般論しか出さない。もちろん、学校、家庭あるいは地域社会が重要な働きをしたが、こうした社会、家庭の変容における青少年個体の意識はどんな変化を起こしたのかについて疑問が残っている。本書は、特に今大きな注目を浴びている女子中高生いわゆる「制服少女」の「ブルセラ問題」や「テレクラ問題」のような性非行問題を中心に社会、家庭の変容と伴う少女たちの内面的の変化を追及している。著者は自らのインタビュー調査によって、従来の認識と異なる女子学生の性非行問題に対する学校や親の皮肉な立場を看破し、その問題にめぐる団塊の親たちの無残な失敗なども論じている。
 本書は2部8章で構成している。
 第1部第1章の「パンツを売ってどこが悪いの?」では、著者は独自の調べで、使用済みの下着、セーラー服などを売る子やQ2伝言やテレクラなどH系バイトをしている現役女子高生は新聞などマスメディアの報道より10倍以上さらに、驚くほど広範に広がっている事実を判明し、特に、代表的なケースだと判断したブルセラ女子高生2人組のインタビューを通じ、意外に彼女たちがH系のバイトをしている事実がわかる親に怒られなかったという極めて重要なポイントがわかるようになった。さらに、ここで「本当に問題なのは、パンツ売ったりエッチなビデオにでたりといった「逸脱的」な振る舞い自体ではなく、そうした振る舞いを可能にするような最近の女子高生たちのコミニケーションのあり方一般であり、そうしたコミュニケーション状況をもたらした歴史的条件であるはずだ」と指摘し、そして、「高度なロールプレイング(役割演技)」という絶対的な枠が喪失する彼女たちのコミュニケーションの特徴も論じている。
 第2章「団塊の親たちの無残な失敗」では、なぜブルセラ女子高生は、親にバレでもパンツ売りをやめないのだろうかにめぐって、親の抑止力がきかない原因を追究している。ブルセラが本当に悪いことなのかどうかも確信できない「団塊親」が絶対的な規範を伝達する機能を失ってしまうのは、むしろ子供に怒らない原因だろう。また、著者は反体制、反権威として登場する団塊世代が形成された社会的条件の角度から、消費社会的な現実と矛盾がしないが「団塊世代」と消費社会の調和物として誕生された「友達親子」のタテマエが、今の社会では失望や断絶による動揺をおおい隠すような機能をしているため親子の間で本音のコミュニケーションがまったくできないし、そこには親の「本気」と子供の「際限なきロールプレイング」がかみ合っているだけという滑稽な事態が見出されることを指摘している。ブルセラ女子高生の親子関係の背後にあるのは「親が悲しまないように」周到に情報管理するようになるだけの彼女たち、「親が驚かないように」適度に脚色してエッチ系バイトの「さわり」を伝える彼女たち。そこにあるのは「友達親子」本来の理念の皮肉の反転だ。ここまで著者が力入れて論じてきた団塊親とその親子関係の特質が「消費社会的な商品化や金銭主義」に問題を集中する倫理主義的の身振りの無効性とは深くかかわっているのは十分納得できると思う。では、こうした「過剰に幻想的な親」と「過剰に現実的な子供」の間で、「現実的な処方箋」は何だろう。子供たちが、家庭や学校や地域社会などの限定された空間に囲い込んでいた時代は、すでに過去のものだ。「都市的現実」の前から子供達を隔離するのも不可能だろう。「有害コミック」を規制するような「隔離政策」は親世代や地域社会の自己満足に過ぎない。このため、性的コミュニケーションの「情報戦」に積極的に参入して、情報で戦うのが有効であろうと著者が主張している。
 第3章「鏡としてのパンツ売り」では、一見過剰にもみえる道徳的な女子高生たちの身振りをインタビューに基づく深く検討している。実際、パンツ売りを拒絶する女子高生たちの振舞いは、単に道徳で説明してしまうわけにはいかなくなる。調査の結果によると彼女たちは各自によって、「売ってもいい、売るのはいや」という自分で勝手に引いた境界線かある。彼女たちは男の欲望のために自分を商品化すること自体を不道徳だと感じているわけではなく、「パンツは恥ずかしい」、「彼氏を裏切りたくない」ため売春しない、あるいは「そこまでやってないからじぶんはちゃんとしてる」というふうに自分にエクスキューズしているらしい。彼女たちの道徳なみぶりは「不透明な環境を生き抜くための処世術」にすぎないだ。ところが私たちに不道徳とみられる彼女たちのある行動は彼女には世間のまなざしに抗す存在ではなく、近接性(周囲とちがわない)を振舞いの方向づけとして利用する作法(その範囲は小さな島宇宙の中に閉じている)である。ここでは、「私たちがブルセラ女子高生を非論理的だというならば、その程度には私たちも非論理的である。」という話は最も意味深いであろう。
 第4章「少女は郊外で浮遊する」の中で、彼女たちにとって、「電話風俗」はいままでママと買い物をしたり友達とアスクリームを食べていたりした都市とはすこしばかりちがった、いわば「偶発性としての都市」というふうにを取り上げている。彼女たちは、従来の「非偶発的」な学校世界の中で保たれていたイメージは、この「偶発的」な世界の中で役が立たない。失われた自己イメージの確かさを取り戻そうとして、彼女たちはその世界にますます参入し、「浮遊」の度合いを強めていくの強調している。さらに、「電話風俗」との接触が女子高生の心ー体験処理の心的なメカニズムーに与える影響について述べている。
 第5章「女子高生というブランド」では、最も注目するのはQ2伝言のメッセージに表わした女子高生たちが知り尽くした自らの性的な商品価値である。女子高生たちの援助交際はメディア主導から現実主導への動もが明らかにしている。多くの女子高生の「参入動機」はただ同じクラスの「素行不良者」による口ごみの学習だ。また、著者は「女子高生」という性的のブランドを成り立たせているのは、女子高生の振舞いの側ではなく、そこに理想(性的であってはならない)と現実(なのに性的)の「落差」をうみだす「近代学校教育制度」的なタテマエの側なのであると判定している。
 第2部「コミュニケーションの進化史」の第6章「新人類とオタクとは何だってのか」では80年代の若者のあり方と消費社会現象との結び付きの意味を検討している。さらに、「高度消費社会」という商品ごとに、人ごとに、多様に分化した社会における消費に関わる動機形成の不透明性あるいは見通しにくく,合意し難いの属性を論じて、「高度情報社会化」むしろ情報チャンネルの過剰な分化を背景にしたコミュニケーションの断絶をしたがって利用しうる情報の格差の拡大をこそ象徴していると批判している。また、「新人類」と「オタク」の棲いわけと文化類型と人格類型の差異を論じて、次の章に予備作業をしている。
 第7章「無神論者たちの宗教ブーム」では、まず80年代後半から90年頃にかけて話題になった「宗教ブーム」が新人類的なもの・オタク的なもののそれぞれとの強い関連性を調査データによって明らかにし、ついで、88年以後急速に「分化退行」(分化していたものが未分化に戻る現象)を示している新人類的なものとオタク的なものを紹介している。更に、新人類的ものとオタケものの発生条件を構成しているコミュニケーションのあり方について検討している。
 第8章「社会は島宇宙化する」では新人類文化の短絡化、新人類世代から団塊世代ジュニアへの動きにおける差異化志向の消滅、あるいは新人類とオタクの統合について述べている。最後には「共振的コミュニケーション」という新人類やオタクのコミュニケーションの概念を提出して、更に新人類やオタクの行動様式の各方面からそれを証明している。
 本書の前半はインタビュー調査に基づいて「ブルセラ問題」や「テレクラ問題」について、数多い新たな観点が提供され、女子高生性非行の実態と彼女たちの内面に働き力の把握には凄く説得力が持ていると思う。後半は前半の事実に引き続いて、関連がある時代の背景からコミュニケーション進化について論じている。後半はやや理論的なものが多いので理解しにくいと感じている。

(黄 新宇)

 この本の目的は、この本が出版された頃話題であった「テレクラ」、「ブルセラ」などのいわゆる「女子高生(実際は女子中学生も含まれるのだがここでは女子高生に限定していく。)の問題行動」について考えていくことである。この本は1〜8章まであり、これを大きくI「制服少女がパンツを売る理由」(1〜5章)、II「コミュニケーションの進化史」に分けて構成されている。
 まずI部から見ていくことにする。現代の女子高生へのインタビューをもとにしながら、ブルセラやテレクラは彼女たちにとって何の抵抗もないことであることを明らかにしていく。そして、そういう行動を可能にする女子高生のコミュニケーションをもたらした原因(背景)として、(1)団塊親の果たした役割と(2)少女カルチャーの展開をあげている。(1)は親と子の関係は「友達親子のノリ」を大切にしすぎ、「見たくないものは見ない」ことにより親の抑止力がなくなったことを述べ、(2)はコミュニケーションの個人化が進んでいることを説明している。そして、もう一つの背景である少女自身の性に対しての考え方についても説明している。少女の性に対する考え方は『 すべてが程度問題』(パンツはだめだけど、制服なら売れる。)である。そうなるのは道徳がないからである。道徳とは日本においては世間のまなざしによって自分を規範する作法だからである。世間(親、地域社会、学校)との関係が不透明である彼女たちには、自分で線引きすることしか残されていなかったということである。次に都市より郊外の方が電話風俗が盛んであることに注目して、それを理解することはかつて親や教師が持っていた役割の重みが失われてしまった理由、そして今日の家庭や学校といった場がもっている意味を理解するのに役立つと考える。問題を解くカギは「郊外」=コミュニケーションチャンスの空白地帯という性格である。つまり、郊外とはそれまでの地縁的な共同性もなく、カラオケボックスなどのナンパやコンパのための「隠れ家」からも疎外された存在なのである。この郊外におけるコミュニケーション環境が1つの理由である。郊外で生活する彼女たちは、不透明な存在である学校の教師や家庭の父親にはコミュニケーションチャンスを求めず、電話を通じて都市的現実にそれをもとめるのである。つまり、教師や父親はすでに「うすい」存在になってしまっているのである。人は本来コミュニケーションチャンスなくしてはいかなる自己意識も持つこともできず、そもそも人であること自体がかなわなくなってしまう。つまり、彼女たちをテレクラから抜け出させるためには、彼女たちにちゃんとした居場所を与えなければならないと筆者は主張する。最後に、「女子高生というブランド」を考えることで第I部をしめくくる。なぜ、彼女たちはここまで話題になるのか。それは大人がもっている「高校生は性的だが、性的であってはいけない」という制服が象徴するイメージに関係する。つまり、「女子高生」という性的ブランドを成り立たせているのは女子高生のふるまいの側だけでなく、そこに理想(性的であってはならない)と現実(なのに性的)の「落差}を生み出す「近代学校教育制度」的なタテマエの側であると考えられる。そして筆者は@全ての高校の共学化A制服の廃止が現在の状態の回避になると主張している。
 II部は「コミュニケーションの進化史」について考える。ここからは本の題名からは少しずれるのだが、」80年代の若者論だった「新人類」と「オタク」についての分析を行っている。まず、若者のありかたと消費社会現象の間の関係を見ていく。80年代は高度消費社会であった。ここでいう高度消費社会とは、あらゆる差異や落差を等価なものとして使い尽くす社会だとのべている。つまり、「新人類」も「オタク」も等価なものとして扱われる社会だということである。次に、80年代後半から90年代頃にかけて話題となった「宗教ブーム」を通し、それぞれの人格類型(新人類、オタク)にとって宗教的なモノとは何かを考える。この結論は新人類は「浮遊する」宗教性(ミサンガなど)を持ち、オタクは全てを自分自身の境地のなせるワザとして理解するというオタク的な「自己関与的な]宗教性を持っているということである。8章では新人類とオタクのコミュニケーションに見られる共通性を探る。オタクも新人類も「新人類世代」の一部にすぎず、オタクもクラブのヒップポップ系も横並びの「島宇宙化」したコミュニケーションなのだ。つまり、社会全体が総「オタク」化しているのだと筆者はいう。なので共通点があるのは当然なのである。結論としてその共通点とは、シンボルの交換を中心とした深さを欠いたコミュニケーションと限定された情報空間の内部でかろうじて維持される自己像であると述べている。
 このように女子高生の現状を分析することを通し、現代の社会システムまで論じている内容になっている。途中ちょっとスケールが大きすぎる箇所もあったが、全体として問題を明らかにし、それにはっきりと答えるという形式で書かれていたため読んでいてたいへんわかりやすく、すっきりとする本だった。現代の女子高生の問題は、「どちらが悪い」などということではないのだ。彼女たちが都市的現実にふみこむことを抑止するのはもうできない。ただ、このような本を読み、知識をもつことで入ってからそのまま先に進むのがいいか、ひきかえすのがいいかをいったん立ち止まって「選べる」ようにしておくのが必要なのだ、と作者は言う。この一言につきると思う。

(高橋良香)

目次に戻る