金山 宣夫 著『ヒーローの文化論』(角川書店 1993年)

分析のヒーロー的存在

 本書においてヒーローを主要な分析概念として、特に日本とアメリカの文化や社会を能動的・相互反応的な関係において比較するという試みがなされている。
 そして著者自身がいうねらいは「日々狭くなりつつある地球上で、どんな問題が何を要因として起こり、現代人に何を意味しているかの一端を、できるだけ複眼的に見て説明すること」にある。
 ヒーローはいつの世も大衆と共に存在した生きる目標だった。著者はヒーローを「欲望と不安に満ちた人生を映し出す鏡としてのモデル的人物」と定義し、ヒーローがそうならば人間とは「ヒーローを見て生きる動物」であると定義している。
 内容は文化、特に最近の文化についてヒーローを使って的確かつ非常に分かりやすい分析がなされている。具体例も多く常に納得させられて読んでしまい、具体例が他人を説き伏せるのに有効だということが実感できる。
 本文中に出てくる関連分野としては、社会心理、メディア、音楽、スポーツ、政治、人種問題など実に多くの文化があげられていることでも、いかにヒーローが影響力をもっているか、いかに著者がヒーローと様々な分野を結び付けているかが良く分かる。
 第一章ヒーローとメディア、第二章スポーツヒーローと大衆社会、第三章ヒーローとアンチヒーロー、第四章国民性と世界観、と言う構成になっており最後に後書き代わりの文が載せられている。
 第一章では、大衆とヒーロー、そしてヒーローとメディアの関係についてかかれている。
 現代においては様々なヒーローが生まれさせられ、そして消えさせられる。ヒーローは大衆のヒーロー登場願望と、失墜願望がマスコミによってかなえられるという図式で動いていると言う考えから、大衆の最終的な願望はヒーローの失墜で、そういう大衆を「スキャンダル消費者」と呼び、また彼らには「ホメ・ケナシ欲求」があり、有名人を引きずり下ろすのを楽しみにしていると言い放っている。
 そして現代においてはヒーローになるべき人物もメディアにさらされ、イメージという実体の無いものが、実体の伴ったヒーロー誕生の足かせになっていると指摘している。
 第二章ではヒーローと大衆社会との関係についてかかれている。
 社会主義体制という「権力ヒーローの虚構」は「民主化」によって独裁者というヒーローがアンチヒーローへと転落させられたことが原因で崩壊したと説明されている。
 そしてその社会主義体制の中で優遇されていたスポーツヒーローの失墜と、民主化された国でのスポーツヒーローの登場の困難さが書かれている。
 第三章ではヒーローとその失墜、新しいヒーロー像について詳しく書かれている。
 アメリカが「かつての超大国」とかつてがつけられる理由にはアメリカ人の特徴である「正義の味方願望」が冷戦終結によってその正義を振りかざす相手がいなっくなったことをあげている。
 また大統領、スーパーマン、コロンブスといったヒーローもわずかなきっかけでアンチヒーローになり得るアメリカ人の特徴も書かれている。
 最後の第四章では第三章までに述べて来たことを利用し特にアメリカの国民性を説き、アメリカの敵つくりについてが詳しく書かれている。
 最近の例ではサダム・フセインがブッシュのパフォーマンスによって敵にされ、一方のフセインはヒーローになるためにはアラブの敵アメリカのアンチヒーローになるのは彼にとっては好都合だったことを解説している。
 そしてアメリカの次のアンチヒーローとして日本人があげられている。アメリカのメディアが故意に日本人がアメリカに対して良いイメージをもっていないだとか、アメリカ国民が排日に動いているという情報を流すことでアメリカ人のアンチヒーローの必要に答えて来ているという。
 とにかくこの複雑な世界を斬るための道具を求めていた人にはうってつけのヒーロー像だと思う。
 イチローやNOMOといったヒーローが本物なのか、果たしてこれから本物のヒーローが出てくるのか、果たしてどのような事象が「ヒーロー」を分析概念にできるのか、「ヒーローを見て生きる動物」としては興味を抱かずにはいられない研究の材料としてのヒーローだ。
(諸江 孝之)

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