藤原 保信 1993 『自由主義の再検討』(岩波新書 293)、岩波書店。

ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつ

 まず、『自由主義の再検討』この本の梗概を連ねる。
 序章。自由主義は勝利したか。自由主義は自己克服を遂げていくことができるであろうか。
 第I章、自由主義はどのようにして正当化されたか。1.資本主義の正当化。一般的にいって、ヨーロッパの思想史をみたとき、古代中世を通じて私有財産と市場にたいして好意的であったとはいえない。一方、中世キリスト教の世界でも、利潤の獲得だけを目的とした交易、とりわけ利子の取得にたいしては激しい倫理的糾弾を浴びせた。富の無限の所有と蓄積への倫理的、宗教的制約が解除され、むしろそれが正当化されたとき、そこにはじめて精神史的に資本主義への道が開かれるといえる。一方、ロックは、すでに自然状態に労働を基礎とする所有権の成立をみていた。そして、ロックは、たんに私的所有権のみならず、富の無限の蓄積をも正当化していった。また、配分の正義は交換の正義の結果であり、交換の正義が守られるかぎり、結果としての配分は正しい。このことは、交換の正義が満たされるならば、結果的に配分の正義が自然的に満たされることを意味する。つまり、すべては基本的に自由なる分業と交換のシステムに委ねられる。2.議会制民主主義の正当化。ヨーロッパのながい思想史をみたとき、資本主義にたいしてと同じく民主主義に対しても必ずしも好意的ではなかった。階層的秩序観は、中世においてもほばそのまま継承されむしろ強化されていった。それゆえに、近代自由主義の成立は、このような共同体的階層秩序の解体を前提としていた。すべての人に自然法を遵守せしめる何ものかが必要となる。これこそ自然状態から相互の契約を通じて設立される国家にほかならない、とホッブスは思弁した。一方、ロックは、人間は生まれながらにして自由で平等であるとしながら、すべての政治権力を人びとの同意に基礎づけていく。つまり、政治権力の唯一の目的は、すでに人びとが自然状態においてもっていた生命、自由、財産の保全であり、同意以外にそれを正当化するものはありえない。ここで、抵抗権ないし革命権の行使は必ずしも、アナーキーな状態への転落を意味しない。要は、自由なるものとしての社会の領域が、すでにそれ自身自律性をもちながら、国家はそれを外的に保障するものとしてある。そして、ベンサムは議会改革を主張した。ここに議会制民主主義は、その機構論をも含めてひとつの理論的完成をみた。3.功利主義の正当化。プラトンにおいて、魂にある種の内的秩序が存在した。この点において近代への転換は、まさにそのような価値のヒエラルキーの転倒によって特徴づけられる。ヒエラルキーの転倒と欲求の解放は、そのような身分制秩序の解体と結びついていたともいえる。その結果、およそ善悪は主観化され、他者と共有する善、つまり共通善の観念は成立しえないことになる。ロックは、自由を定義してつぎのようにいう。自由は、われわれが選択し意思するところにしたがって、われわれが行為したり行為しなかったりすることができることに存する。スミスにとっておよそすべての人が他人の運命にたいして抱く関心こそ、徳の源である。そして、立場の相互交換のなかで、道徳規則が客観的なものとして成立していく。功利主義者ベンサムにおいては、およそわれわれがなすすべてのこと、われわれが考え言うすべてのことにおいて、この快楽と苦痛が支配している。そしてそれは自然的事実であるのみならず、唯一の善悪の基準である。結果の総和をもって計算しつつ、苦痛の付加を通じて、有害な行為を阻止することが主たる政府の仕事ということになる。このように、次第次第に「自然的自由の体系」の方向に現実そのものが向かっていったのである。
 第II章、社会主義の挑戦は何であったか。1.政治的解放の限界。無制限な普通選挙の実現によって、国家も普遍的利害の体現者となりうる、とマルクスは思惟した。まさに市民革命にあらわれた政治的解放の本質は、政治的国家からの市民社会の分離にあった。しかしそれは同時に、自然的欲望の解放であり、市民社会の原理をなす物質主義と利己主義の完成でもあった。また、人間の差別一般が問題なのであり、政治的解放にもかかわらず−いなそれゆえに−、市民社会がそれ自身のうちにたえず差別を生みださざるをえないことが問題なのである。よって、プロレタリアートが今度は市民社会の止揚の担い手としての位置を与えられていく。2.私有財産と疎外。国民経済学においては、むしろ私有財産を所与の前提とし、そのことによってそのもとにおける疎外や諸矛盾を隠蔽するものとして機能せざるをえない。マルクスは、私有財産を否定し告発するにとどまらなかった。それを克服するものとして共産主義を掲げる。歴史発展の根底にあるものは、生産力と生産諸関係である。そして、資本主義社会においては、人間と物との関係が転倒し、生産者としての人問の社会的諸関係が、労働生産物の社会的関係としてあらわれる。3.市場経済と搾取。商品は、使用価値と交換価値という二つの矛盾せるものの統一である。剰余価値の秘密は、この唯一の価値の源泉である労働者が、その労働力の再生産に必要とされている以上に、言葉を換えていうならば、労賃として支払われる以上に働くということのうちにある。そして、マルクスは資本主義のうちに矛盾の深化による崩壊のメカニズムをみたのである。また、立憲共和制に社会=民主共和制もしくは赤色共和制を対置し、革命こそ歴史の機関車であるとしながら、かかる移行における必然的な過程としてプロレタリア独裁が語られる。つまり、旧い権力機構を打破し、階級を廃絶し、社会の経済的土台を社会主義的に組み換えていくためには、ある種のプロレタリアートの革命独裁が避けられない。
 第III章、自由主義のどこに間題があるか。1.社会主義の失敗。社会主義革命が、まず資本主義の発達の遅れた国に成功したという事実は、社会主義そのものにとってもひとつの不幸であった。そして、理想としてはともかく実際においては、市場のメカニズムにかえて、供給と需要の調整を人為に委ねること自体が容易ならぬわざであるといわなければならない。また、権力の悪に無防備なまま、ある目的のために造られた権力が自己目的化し、時に権力欲に奉仕していくという事態にたいする制度的な歯止めがなかった。そして最後に、科学の論理に支えられつつ歴史のなかで現実可能とされたユートピアは、目的と手段の緊張を欠きつつ、過程をすべて手段化しつつ、逆ユートピアを産みだす危険性をともなっていた。2.自由主義の陥穿(一)ファシズムの体制は、一面において国家社会主義を標傍したとしても、またその権威主義的体制は自由主義へのおおいなる挑戦でもあったとしても、資本主義の所有構造や階級関係に根本的な変革を加えようとするものではなかった。資本主義の悪を告発し、その打倒を叫ぶ体制や勢力の存在そのものが、それとの対抗上、資本主義の自己修正への努力を促していったといえる。資本主義的生産が支配的である社会においては、物質主義と利己主義、利潤への「限りなき盲目的衝動、人狼的渇望」は資本家個人の倫理性のいかんにかかわりなく、商品生産の世界における必然的法則としてはたらく。そして、これまでのような資本の論理に領導された経済成長が続けられていくかぎり、公害や自然破壊はすでに時間の問題であるように思われる。さて、構成原理からみるならば、資本主義と議会制民主主義との問には多くの共通性がみられる。そして、政治的領域は、労働と生産を中心とする私的、社会的領域をよりよく実現するために存在している。要は、攻権交替が可能な複数の政党をもつ議会制民主主義のひとつのメリットは、最悪の攻府の出現を回避するということにあるといえる。3.自由主義の陥穿(二)功利主義は、今目おおかたの人びとの日常的な行動原理をなし、政治社会の判断基準をなしているとさえいえる。ロールズの功利主義批判の主眼は、功利主義はいっけんそうみえるほど個人とその人格を尊重していないということにある。一方、ノズィックの批判は、むしろ功利主義の道徳的側面にかかわる。ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックのいずれも、このうち善への問いを各人に委ねつつ、もっぱら正のみを行為や制度の判断基準として立てる。ノズィックは、最初から福祉国家的な国家の肥大化に反対し、最少国家を擁護する。が、とりわけ個人はロック=ノズィック的な自然状態を出発点とするのではなく、つねに一定の歴史の蓄積としての社会関係のなかに存在する。そこには持てる者と持たざる者という不平等が歴然と存在するのであり、競争が持てる者に有利に作用することはたしかなのである。そしてドウオーキンは、次のことが自由主義の本質的要件であることを繰り返し説く。個人の目的の如何にかかわりなく、まず平等としての権利をその政治理論と政治参加の基礎におく。目的の選択は完全に個人の主観に委ねるのである、と。マッキンタイヤーにとってもテイラーにとっても、人間はみずからの意識のなかで、過去、現在、未来を統一し、会話を繰り返していく。そのなかで何を為すべきであり、何を為すべきでないかを判断し行動していく。もちろん、このばあいの会話は、他者と無関係な単独の自己のうちでおこなわれるのではない。つねに他者を介し、他者を意識しつつおこなわれる。さて、価値相対主義を唱えることは、結局のところ、既存の不平等や特権を放任し、時には隠蔽し、結果的にそれを擁護することにならないであろうか。
 終章、コミュニタリアニズムに向けて。何を為すべきであり何を為すべきでないかは、他者との相互的な関係と意識の対話的関係のうえにあらわれ、善はたんに主観の問題であるにとどまらず、一定の客観性を帯びるにいたる。内的善とは、そのような実践にたずさわることによってのみ達成されうるものであり、それ自身が目的たりうるものである。それは時には競争を刺激したとしても、その達成がその社会全体にとって善でありうるものである。また、徳とは、その所有と行使が実践に内的な善を達成することを可能にし、その欠如が実際にわれわれをしてそのような善の達成を妨げるような、習得せられた人間の資質である。そして、関係の網の目は今日すでに、個人を単位とした人問相互の関係をこえて外なる自然にまで拡大されていかなければならないであろう。終わりに、価値観としての功利主義と議会制民主主義は、経済の支配に好個のものとしての機能をはたしてきたといえる。このような構造の組み換えこそ今日何よりも要請されているところであり、本書もまた思想史の立場からのそれへのひとつのアプローチであり模索であったといえる。
 あとがき。資本主義的な商品経済が一般化し、人びとの欲望が無制限に肯定されてから、まだ一世紀そこそこしか経っていない。ながい人類の歴史からみるならば、ほんの一時期にすぎないものが、いかにも普遍性を獲得し、当然のこととされている。そして現代文明は、およそ人びとの反省能力をも麻痺させるような魔力を秘めているようにもみえる。
 著者の藤原保信氏は1935年長野県に生を受け、早稲田大学政経学部教授を政治思想史を専攻し勤めていた。が、1994年(平成6年)6月5日(日曜日)午前8時49分敗血症のため死去せられた。氏は、「わたくし自身、基本的にはすでに触れたコミュニタリアンの主張に同調するところがおおきい。」(藤原[1993:187])、と自身綴っているようにコミュニタリアンであった、と思い倣されうる。
著者がこの本の中で一番言いたかったことは、次の事に尽きる。
(藤原〔1993:176f])
著者は別の論文「現代政冶思想の展望」でも次の様に綴っている。
(藤原〔1987:298])
 藤原氏の労作にたいし僕から一ケ所の努力不足の筒所と2ケ所の賞賛すべきポイント計三点コメントを挟みたい。まず一つ目、藤原氏はどうも知識人は、一つの時代が完成しはじめるとき、神の代理として前後を見渡し、この時代はどういう意味をもっているのかということを言い得るものと捉えている。だがこのことは、容易に人問として望ましい生き方を(当人の意向を無視して直に)押しつけてくる paternalism に本卦還りしているのではないか。善の構成要素に本人の評価・選択というファクターを含めている点で、少なくとも paternalism には陥っていない Amartya Kumar Sen 及び M.Nussbaum のように paternalism を回避する術が本書ではどこにも堤示されていないのが、白璧の微瑕である。次に、この著作では、先に触れられた箇所をもう一度述べる場合に、前掲などと読者に何ぺ一ジも手繰らせるような厄介なことをさせずに、きちんと再び掻い摘んでくれているので、快適に読み進めることが出来た。そして最後に藤原氏の社会主義に対する態度は、それこそ社会科学を学ぶ者として良い意味で西施の顰に倣うべきものだ。
(藤原[1993:134])
市井の人ぴとは、社会主義と小耳に挟んだだけで悪態をつくのに、著者の藤原氏は、マルクス主義や社会主義に対しても、良いところは良いとして盛んに摂取し悪いところは悪いとばっさり切り捨てる、という態度を採っている。これぞ正しく、韓信の股くぐり、だ。
 まとめに代えて。本書はまずヨーロッパのながい思想史をみたとき、必ずしも好意的ではなかった自由主義が、いかにして正当化されていったかというプロセスをよく整理し詳述している。この点に関しては、天晴れだ。そして次にそれにたいする社会主義の挑戦が何であったかを問い、その失敗の原因がどこにあったかを問いながら、今日の自由主義と自由主義の理論を検討している。が、惜しむらくは僕の知りたかったコミュニタリアニズムに関しては、ページの関係からか表層的な概説ぐらいしかなされていない。件の件に関しては、跡見学園女子大学文学部教授の川本氏もこう綴っている。「自由主義への代替案として示された《コミュニタリアニズム》が描き切れていないとのうらみが残る。」(川本[1995:164])本書は非常にこの分野としては、晦渋でなく初心者の入門書として最適だ。
(森岡 斗志尚)

Bibliography
藤原 保信 1993 『自由主義の再検討』(岩波新書 293)、岩波書店。
川本 隆史 1995 『現代倫理学の冒険−社会理論のネットワーキングへ−』(現代自由学芸叢書)、創文社。
小阪 修平 1995 『はじめて読む現代思想II・展開篇』(芸文ライブラリー・シリーズ 7)、芸文社。
小田 信生 (ed.) 1995 『1994年(平成6年)読売ニュース総覧』、誘売新聞社。
小笠原 弘親・小野 紀明・藤原 保信 1987 『政治思想史』(有斐閣Sシリーズ)、有斐閣。
岡野 敏之 (ed.) 1994 『読売新聞縮刷版6月号』37-6(430)、読売新聞社。

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