東山 弘子、渡邊 宏 共著『「父」をなくした日本人』(春秋社 1995年)

現代に生きる「父」の心理を説き明かす

 この本の題名が指し示すように、今、日本人は「父」というイデオロギーをなくしつつある。昔の「父」とは、家庭内で権威があり、強くて、家族に自分の弱みを見せることなどなかったといってよいだろう。私が一家の大黒柱と言わんばかりに、家族のすべてを背負う父は、どこででも見られた。だが現代において、上記のように、「父」は、強くてたよりがいがあって……などといえなくなってきている。もう、昔から語り継がれてきた日本人の「父」の概念はなくなりつつある。現代の「父」は、「父」ではなく、1人の人間として、母や子供と同じように悩み、傷つき、悲しむのである。
 この本では、今まで、「父」という立場にいることで、周囲の人々から理解してもらえなかった男性の心理面を特に重要視して、なぜ、現代の「父」とよばれる人々が、そのような行動に至ったのか、また、現代の父はいったいどのように位置付けられているのかをこの本の著者でありセラピストである東山氏と精神分析に従事している渡邊氏が対談しながら原因を探り、考察していく、という形式が取られている。
 この本の内容は、 PartT・こころを診る、PartU・ドキュメントを診る、の大きく2つにわかれていて、さらにPartTは第1章・家族の症状にみる「父」の不在、第2章・父は心の「病い」を許されているか、の2つ、PartUは第3章・社会の症状にみる「父」の不在、第4章・逆緑の時代の父たち、の2つに内容がくぎられている。
 PartTの「こころを診る」の方では、主として、セラピストである東山氏の所にカウンセリングを受けにきた「父」の話を中心に進められている。第1章では、カウンセリングを受けにきた「父」と、その家族の両方の証言(?)を基に、昔からある「父」のイメージと現代の実際の「父」とのギャップをその人の生まれ育った環境や現在おかれている立場など、その他あらゆる状況証拠(?)をからめつつ、見つけていっている。また、第2章では、悩める「父」を周囲の人や家族は、今までどのようにとらえてきたのか、が語られている。やはり、ここでも、そこにでてくる人々がどのように幼年時代をすごしてきたかが話にのぼっている。
 PartUでは、ドキュメントを診る、という区切りがされているように、事件としてTVなどマス・メディアで取り上げられた出来事を、それらが流す情報の範囲内で推理、推測しながらなぜこのような事が起こったのか、加害者と被害者の性格、心の様子などを明確にしていくものとなっている。ここで取り上げられている事件は、将棋の森安九段刺殺事件、新庄市明倫中マット死事件、と、最近の、しかも、有名なものであるため、興味深く読めると思われる。第3章では、上記のような事件が取り上げられるが、第4章では、ロックシンガー尾崎豊の父や国連ボランティアの青年中田さんの死に直面した父、など、これもまた、有名な人の父が取り上げられているが、ここでの父は「逆緑の父」と名付けられた、悲しい父である。この逆緑とは、死は、年功序列で父が死に、子が死ぬ、というパターンが一般的である、と考えられている時代に、父よりも早く子が死んでしまう、いわば順序が「逆」になってしまった事をいうのだが、こんな境遇におかれてしまった父の心境はいったい、どんなものなのか、推測する、というものになっている。
 この本は、有名な人物から、自分の身近にいるような人まで、様々な事例があり、読む人にとっては最後まで興味深く読むことが出来ると思うが、著者2人の対談形式、ということもあり、口語調で書かれてあるため、「…と思います」「…ではないでしょうか」など、不確かな感じを読者にあたえ、また、2人の間で謙遜とも思われる会話があったりなど、私としては、対談形式はやめたほうがよいのではないかと思った。また、PartTは、直接カウンセリングを行なった人物について考察しているからよいのだが、PartUでは、まったくの推測なので、自分がその意見に賛成するかしないかによって、読み方も変わってくると思われる。私は、この本の題名ほど深いものではなく、著者2人の私的会話として読んだらよいのではないかと思った。
(木下 治代)

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