渡辺 武達 著『メディア・トリックの社会学──テレビは真実を伝えている か』(世界思想社 1995年)

メディアがつくる明るい社会

 この本は、テレビ番組制作に実際に関わっている著者が、「やらせ」問題などをネタにしてマスコミのあるべき姿を述べた最近の論文3本を若干修正して収録した3部構成になっている。
 第一部ではまず、NHKスペシャル『奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン』の「やらせ」問題を取り上げる。まず事件のいきさつについて述べ、その後の報道において欠落していた「やらせ」の定義をする。この定義がしっかりしないまま議論が進んだため、「やらせ」と演出の区別がついてない人間により「ヤラセなくしてテレビなし」という発言がなされたという。そして「やらせ」のその他の具体例にも触れた後、制作現場における「やらせ」の誘惑として以下のように述べる。視聴率をとにかく稼ぐため、俗受けのためのセンセーショナル化、時間や費用の不足(キー局によるカットオフ=ピンハネも原因の一つ)のために「やらせ」やタイアップ(つまりは癒着)でもしないと番組が作れない、などがあるが、ひどいものでは世論誘導のためや政府や企業の関与又はそれらの意向を忖度した自主規制といったものが簡単な実例と共にあげられている。「やらせ」問題の抜本的解決策としては、(1)公正・中立で、税金による経営支援をも政府に勧告、実施出来るような強い力を持ち、中央の政治・経済から独立した準司法・行政組織としてのマスメディア監視組織の結成、(2)マスメディアの特性・社会的位置・誤用の危険などを学校教育において正式な授業で取りあげる、(3)メディアの自己内部点検制度の充実、の3つを挙げている。そして最後に、「市民主権の民主主義と社会の維持・向上は良質のマスメディアの存在によってのみ保障される」と強調する。
第2章では「テレビCMの政治性」と題して、自然食品会社のCMが「原発バイバイ」という一言が入っているだけで放映を打ち切られた一件を取り上げ、その経緯の後に広告論・メディアの社会的使命・放送法・編成権・意味論などを持ち出してその不当性を説明する。内容の要点をまとめると、放送局側は、放送法の中の「公安及び善良な風俗を害しないこと・政治的に公平であること・報道は事実を曲げないですること」といった内容に違反するというが、そもそも広告論から見てそれ程政治的なメッセージでもない一言なのに、過敏に反応したあげくに、「原発バイバイ」が駄目で電力会社の原発推進CMがよいというのこそ「政治的に公平」という一節に違反する、というのが中心である。さらに原発推進CM、放送時間割合の娯楽番組への偏向、霊能・超能力ものなどを例に挙げ、放送法や民法連の放送基準はたいして守られてもいないのに「原発バイバイ」だけに恣意的に用いられていると非難する。そして原発関係の報道について更にツッコミを入れると、情報が公開されてないばかりか、資源エネルギー庁から広告代金をもらいながらプルトニウムの安全性についての座談会を広告提供社名を伏せて解説記事形式で掲載(日本新聞協会の広告倫理要綱及び新聞広告掲載基準に違反)、といったように大きなスポンサーや権力の要請による「やらせジャーナリズム」が行なわれているという。結びでこの一件を、「現行日本の政府と電力事業関係諸団体の意向、そして上述の様々な要因からそれを慮らざるを得ない仕組みのなかにとりこまれている、一地方放送局の(株)瀬戸内放送によって中止されたものであるといえよう。」とまとめる。
 第三部は、かの有名な「椿発言」である。経緯としては、日本民間放送連盟(民法連)の会合で、テレビ朝日の椿取締役報道局長が非自民政権が生まれるよう報道するよう指示したという発言したと産経新聞が報道したのだが、この報道には・公開を前提としない自由な発言の記録テープをもとに外部が記事を書いた・公正の中身を検討せず特定政党の利害を代弁するような報道した・実際の発言を意図的に歪曲した、といった問題点が著者に指摘されている。それに一部を除く多くの大手新聞も同調した上に、それがもとになり、椿氏が国会に証人喚問されるという「戦後の日本のジャーナリズムの歴史に汚点として残る」(著者)事態になった。この証人喚問にしても、以前から報道番組などに圧力をかけてきた某政党が、政権を失ったことに関してスケープゴートとして槍玉に挙げたものであると著者はいう。それに続いてメディアへの政治的干渉があったことを実例を挙げて紹介している。そこでは弱みとして、放送局は免許制であるためにそのことを「ちらつかされるだけでも骨抜きにされてしまう」という点があると述べる。また、NHKは国家予算で運営されるから言うなれば国に財布を握られている状態だし、民法は私企業だから利益至上主義にならざるをえず、そのためニュースなども娯楽性が重視されてしまうと憂慮する。他にも情報操作(特にナショナリズム)・放送局内の勢力・外注利権・技術権益などがメディアの社会的機能を阻害する。
 著者は、これまでの「公正」の定義の見直しが必要だとし、従来の公正論の五類型を挙げた上で第六の考え方として「積極的公正・中立主義」を提唱する。これは、「これまでの人類社会がよりのぞましいものとして社会の健全な維持のための普遍的プラス価値、常識としてきたことを中心基準としてマスメディアの送出情報を制作、編集、編成する」という考え方である。つまり、公職選挙中にその候補者に不利になる情報であっても贈収賄・脱税といった情報は流されるべきだし、娯楽においては露骨な性表現のある深夜番組やスポーツ紙の風俗関係の記事は、女性を慰み者視し男女共生の社会的枠組みをそこなうから娯楽として推奨出来ない、といったようなことである。最後に、市民参加のマスメディア監視組織の結成、マスメディア教育を学校の正式な授業での取りあげ、メディアの自己内部点検制度の充実、の3つを推進すべきという第一部の結論を繰り返して強調する。
 以上、著者が現在のマスメディアの惨状を憂い、良くしていこうという気持ちにあふれていることは良く伝わってくる。ただ、内容に納得がいかない点がないでもない。最後に出てきた「積極的公正・中立主義」の部分である。「普遍的プラス価値、常識としてきたこと」を中心基準にというが、それを誰が決めるのだろうか。そのための市民参加の監視組織だとは思うが、「普遍的」という表現にはあまりにも引っ掛かるものがある。マスメディアによって、普遍的プラス価値、常識に「する」ということを著者はよしとするのだろうか。いや、それをよしとするのが「積極的公正、中立主義」なのだろうが…。
(加藤 正志)

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