第3節 外国籍家族と教育

 

宮嶋 元気

 

 今回の調査に協力していただいた外国籍の4家族は、教育に関する不満は抱いていなかった。Aさん夫妻は日本の教育にはむしろ満足している。また、安全対策や学童保育など、ブラジルと比べて保護が手厚いことや教科数が多いことにも満足している。Dnさんも日本の学校制度に不満はない、とインタビューで答えている。
 このように外国籍家族が、不満はないまたは満足していると思っている背景には、日本の学校の周到な措置によって外国籍の子どもに好環境が与えられているというのがあるだろう。Aaちゃんの通う学校にはブラジル人の先生が学校に来ており、ブラジル人の子どもを対象にポルトガル語で特別授業を行っている。さらに、その先生は保護者向けの連絡事項をポルトガル語に翻訳したり、保護者会で通訳をしたりするといったことも行っている。Cyi君の通うZ小学校にも中国語を話せる先生がおり、特別授業も行われている。ただし、Cyi君は日本語を理解できるので、特別授業には出ていない。De君も同じ学校で特別授業には出ている。ロシア人の先生はいないのだが、普段から、日本人生徒と一緒に授業ができるように、日本語を担任の先生がジェスチャーや絵を使って説明してくれるので、学校ではロシア語をそれほど必要にはしていない。
 今回の調査では、ゲートキーパーのYさんによる、我々学生と外国籍家族とのトラブルを避けるための配慮がなされていたということを忘れてはならない。Yさんが「親日派」と呼ぶ、今回の調査対象になった4家族は、その名の通り、日本での生活が割とうまくいっていて、日本に対して良い印象を持っている人たちである。そういった人たちを調査したので、データの偏りが生まれてしまっている可能性はある。一方、Yさんは、外国籍家族が直面しやすいいくつかの問題について私たちに語っており、そのうちのある部分は今回のインタビューで語られたこととも関連を持っている。
 第一に、日本の教育は学習の場面で用いる日本語を教える技術が整っていないという問題がある。以下では、太田(2000)に従ってこのことについてまとめたい。日本の学校によるニューカマーの子どもたちへの「適応教育」は、半年程度の初期的な日本語学習を行い、日常会話と簡単な読み書きを身につけた時点で終了する。しかしこの時点で大半の子どもは、授業理解に必要と考えられる日本語能力(学習思考言語)を習得できていない。ところが、日本の学校はニューカマーの子どもたちを日本の子どもたちと同様に扱うことに固執するため、ニューカマーの子どもたちに対して「授業がわかる日本語力」の養成を目指す日本語教育を行わない。なぜなら、「適応教育」によって「みんなと同じ行動をとることができる日本語力」を身につけたニューカマーの子どもたちだけに、さらに日本語教育を行うと「特別扱い」になってしまうからだ。(太田 2000: 219-220)
 このように、日本の学校は日本の子どもとの教育機会の均等を図るため、外国籍の子どもに対して、日常言語は教えるが学習言語までは面倒を見ないという情況になってしまっている。今回のインタビューでは、Dnさんの話の中にこうした情況を垣間見させる部分がある。De君が通うZ小学校には、特定の科目の時間に外国人生徒だけが別教室で勉強する取り出しの授業があるのだが、その授業の趣旨は早く日本語を覚えて日本の子どもと一緒に授業ができるように、といったもののようだ。Dnさんはこの取り出しの授業を「日本の子どもと一緒に授業をするための準備」という風にとらえている。外国人生徒の受け入れ態勢がしっかりしているとされる学校ですら、このようにとらえられているのだから、それ以外の学校を含めた全体的状況は想像に難くない。
 また、志水宏吉も宮島(2001)に依りながら、生活言語に対置されるものとしての学習言語の壁が、彼らの教育達成を阻んでいる(志水 2003: 193)と述べている。こうした問題は、会話に不自由しない外国人生徒たちの表面からは見えにくい問題である。
 さらに親側の問題として、イシカワは、多くの親はわが子の日本語レベルを過大評価し、日本人と同じ仕事につけると信じているが、子どもたちの日本語能力は子供同士の会話で使う言葉遣い(日常生活語)の範囲をあまり出ない(イシカワ 2005: 86)としており、親が子どもの日本語レベルをよく理解していない場合もあるようだ。Bさん家族はそういったケースではないが、この親子は関連する問題を抱えている。Bさん夫婦は普段、ポルトガル語で話し、日本人との会話をする場合はBeさんが通訳しながら進行させていく。しかし二人とも日本語学校には通っておらず、日本語に自信を持っていない。Br君は日本生まれの日本育ちなので日常会話については問題ないが、ひらがな・カタカナを覚えていない。夫妻は、日本語に対して自信を持っていないものの、もうすぐ小学生になるBr君に教えることができるくらいには日本語を覚えたいということで、今は漢字の勉強を積極的にしている。
 二点目の問題として、外国籍の子どもが母国で習った勉強の方法が日本のそれと異なる場合があるということが挙げられる。Yさんによれば、ことに算数・数学において、日本の先生は「過程」にこだわるので、過程が日本式でないと答えがあっていても正解にならない場合がある。以下にブラジルの割り算の表記の仕方を挙げるので、日本の割り算との違いを見ていただきたい。
 
(1) 798 │6 
         ̄

(2) 798 │6
    ↓    ̄
   19   1


(3) 798 │6
     ↓   ̄
   19↓  13
    18


(4) 798 │6
         ̄
   19   133
    18

 やり方の説明をしようと思う。(1)は798÷6をブラジル式に表した式である。(2)では、7÷6の商1を6の下に、7の下に余り1を書き、9を上から降ろしてきた状態(矢印は実際には書かない)。(3)は19÷6の商3を6の下に、余り1を9の下に書き、8を降ろしてきた状態で、最後の(4)は18÷3の商3を6の下に書いて、798÷6=133だったということを表している。このようなやり方を習ってきた子どもが急に日本式の割り算のプロセスにのっとるように言われた時は、少なからず戸惑いやストレスを感じるだろうし、それが成績に反映してしまうこともあるだろう。
 三点目は文化の差による人間関係の違いから、外国人生徒が日本の人間関係になじめないという問題である。Yさんによれば、部活、特に運動部の上下関係に悩む外国人生徒が少なくない。それに対して、たとえばブラジル人はみんな仲良しで和気あいあいとした関係を基本とするようだ。そんなブラジル人は、日本人同士の関係は冷たく、厳しいものであると見る。Aさんも知り合いの日本人に家族を紹介してもらえなかったことから、家族のことを恥ずかしがっていると思えて、日本人は冷たいという印象を持っている。Dmさんは、日本人は冷たいとまでは思ってはいないものの、日本人が他人に対して丁寧な言葉を使うことや、自分の考えをあまり表に出さないことに違和感を感じている。
 日本の学校の特徴についてリリ川村は「総合的な人間形成を念頭において、日本の学校は定期的家庭訪問やクラブ活動等様々なグループ活動を通して学校と家庭、コミュニティーの統合を目指している」(川村 2000: 158)と述べている。それに対して、ブラジルの学校は「技術主義的」で、総合的教育や姿勢や行動、価値観の教育は基本的に家庭の責任下に置かれている(川村 2000: 169)としており、ブラジルと日本では学校のとらえ方が異なっている点を指摘している。こうした背景があるために、ブラジル人は日本の総合的教育にうまくなじめず、苦労しやすいと考えられる。年齢、学年が高くなればなるほどその苦労はひどくなっていくだろう。総合的教育というなじみのない教育方法の中では部活もやりにくいし、もしやるとしても待っているのは日本特有の冷たい上下関係。ブラジル人生徒はこの二つの壁によって部活をする機会から遠ざかりやすい可能性がある。
 ではどのようにしてブラジル人生徒が日本人生徒と関係を築いていけばいいかというと、マンガやテレビの話でそうしていくという方法はある。共通の話題でもって友人関係を作っていこうということである。しかしブラジル人家族はブラジルのテレビ番組を見られる環境を整えて、子供の事情を知らないままブラジルの番組ばかりを見る傾向があると言われる。実際に、A家ではブラジルの番組が見られる環境にあり、日本のテレビ番組を見ることはまずない、とのことだった。
 こうした問題に直面しやすい外国籍家族だが、問題を軽減あるいは解消させるには、外国人支援の情報を共有する、国籍を越えた人間同士のネットワークを作っていくことが重要だろう。そのためには外国籍家族の実態をより多くの人に知ってもらい、協力してもらうことが何よりである。Yさんが、この授業を通して私達に行ったことはまさにそうした活動であり、この報告書もそうしたネットワークの一端を担っている。志水は、マジョリティーは往々にしてマイノリティが置かれている不利な立場に頓着していない(志水 2003: 190)と述べており、Yさんも、日本人は身の回りで困っている外国人のことに気づいていないと語っていた。おそらく、我々にできることは、「共生」という言葉からイメージしやすい大げさなことではなく、もっとささやかなことだ。例えば、Br君のようにひらがなを読めない子どもに物の名前を教えるときは、実物を見せながら「これが○○だよ」と言ってあげればよい。あるいは外国人の親たちが、日常会話がある程度できる人であっても、学校や行政に関わる文書を読むのに困難を覚えていないかを尋ねることはできる。これらのように小さなことでもいい、大事なことはそういうことに気付き、そして実行に移すことだ。そうすれば外国人との間にある様々な問題が緩和し、共生の道も開けるといえるのではないだろうか。