4節 ロシアと日本の架け橋になりたい

 

児玉 敬哉  宮嶋 元気

 

 インタヴューはDさん一家が住むアパートで行われた。Dさん一家は3階に住んでおり、玄関を入ってすぐのリビングで行わせてもらった。部屋の隅にはパソコンが置いてあり、真ん中にはソファが置いてあった。部屋は一見普通の日本人家族と変わりはなかったが、所々に露和辞典や日本語を勉強する本がおいてあり、ここが外国人家族の家だと実感させた。
 Dさん一家はロシア人で、夫Dmさん(27)と妻Dnさん(27)、息子のDe君(9)の3人家族である。日本に親類はなく、ウラジオストクからきた。
 妻のDnさんは県国際交流員として働いており、今回の来日が8回目である。ビザは「人文知識・国際業務ビザ」という種類だ。日本語は達者であり、多少つまる所もあるが、ほぼ違和感なく聞ける。それは、ロシアで日本語の教師をしていたという経歴から来るものであろう。
 彼女が初めて来日したのは平成5年、観光で父と横浜に3〜4日間ほど訪れた。その前から日本に興味はあったが、そこで彼女は日本語を学ぶきっかけに出会った。「この建物の背景に着物を着て歩いてた女性の姿を見たらすばらしいと思ったんです。その現代的な街の中にもちゃんと伝統を守ってく人もいるということはよかったと思って、もっとよく日本のことを知りたくなりました。」と語る。次に来日したのは4年後の彼女が大学2年生のとき、日本に半分旅行のようなな感じで研修旅行に来た。その1年後、日露学生会議に参加するために3週間来日。そこで今でも付き合いが続いてる友達もできたという。その次の年には留学生として金沢に1年間来日。平成14年と15年の秋には2ヶ月間、ロシア民族アンサンブルとともに日本中を回った。「民族、ロシアの舞踊とか歌とかを歌うアンサンブルと一緒に日本を一周しました。そのときはほとんど、北海道から沖縄まで、回ってきました。」また、去年の9月には、自分の教え子とともに大阪インザワールドというコミュニティに参加するために来日。Dnさんによれば、そのコミュニティの目的は、大阪府の生徒たちにいろいろ国のことを紹介することにある。
 夫のDmさんは来日して数ヶ月しか経っておらず、日本語はまったくといっていいほどしゃべれない。話した日本語は、「合気道」と「龍・村上」だけだった。しかし、武道に関心があり、空手を通して日本に興味を持っていたようだ。彼は「短期滞在ビザ」という期限が3ヶ月間のものをとって来日した。しかし、とりあえずDe君の学校の区切りがつく3月までは延長させてもらい、現在も滞在している。また、もし何かあれば、De君とともに3月に帰る予定であるとも答えてくれた。しかし、できることならこのまま、De君には今の小学校に通ってほしいようだった。彼はコンピュータ関連の会社にプログラマーとして勤めている。そこは、来日前から勤めている会社である。パソコンはロシアで自分で組み立てて、日本にもってきたそうだ。
 息子のDe君は小学校の3年生である。「家族滞在ビザ」で来ている。来日して数ヶ月しか経っていないが、日本語は日常会話程度ならすでに話すことができる。これは小学校に通っているからであるが、Dnさんに教わったというのと、まだ彼が発育途上の子供で吸収が早いことも大きいだろう。インタヴューは基本的にDnさんが答え、ほかの二人に質問が及んだ場合はすべてDnさんが通訳して進められた。
 まず、日本にいつごろ来たのかという質問にDnさんは「わたしは今年の8月に来てもう4ヶ月間ぐらいで、彼らは2ヵ月半。9月の中旬頃に来ました。」と答えた。前にも述べたように彼女は来日8回目であり、前に1年間留学していただけあって日本に慣れている様子だった。富山に配属が決まったのは7月の中旬で、来日の2,3週間前だった。ちなみに国際交流員のテストは3月に行われている。それまでどこに行くのかはわからなかったが、大体の見当はついていたらしい。というのは、ウラジオストクから派遣されるところは富山、新潟、島根しかないからである。De君とDmさんが来日するときには、祖母がDe君と離れるのを寂しがったそうだ。来日の目的は今の仕事につくためであり、後から彼らが家族一緒に住むために来日した。富山市とウラジオストクは姉妹都市交流を行っており、その橋渡しとして仕事をしている。
 彼女の仕事内容としては富山市とウラジオストク間の手紙や書類の翻訳、電話のやりとりがまずひとつとしてあげられる。二つ目は、学校を訪問して、ロシアを紹介することである。三つ目は、ロシア語講座を開くことで、ロシア語を一般の人に教えることもしている。四つ目はまだやったことがないそうだが、ロシアからの団体旅行者を案内する仕事もあるそうだ。なぜこの職業を選んだのかという質問に及ぶと、「ロシアと日本の架け橋になりたいという、まあ理想的な考え方ですけど、ほんとになりたいですから。(中略)このプログラムは、参加できる年齢も限られてるし、いつまで続けれるかどうかわからないから、こういうチャンスがあれば、必ず行ってみて、自分でももっと詳しく調べたかったですから。」と答えた。年数のことについて詳しく聞いてみると、仕事の期間は今までは3年だけの1回きり、35歳までしか国際交流員になれなかったと答えた。しかし、今年からテストを受ければまたなれるようになり、年齢制限も40歳までに延びたという。さらに、1回で4年の勤務も可能になったらしいがDnさんはあまり詳しく知らないらしい。交流員の要請はJETプログラムというところに県が行なっているという。
 日本語の難しいところはやはり敬語だという。ロシア語で敬語にあたるのは、父性をつけて名前を呼ぶくらいのもので、あまり敬語というものはないそうだ。「誰かが来たら、こういうときどう言えばいいのかわからないとか、ちょっとわたしにとって難しい点です。」と彼女は言う。日本の上下関係がよくわからないのかもしれない。そこで、ロシアでの上下関係について聞いてみた。ロシアは日本に比べて上下関係があまり厳しくない。例えばDmさんが勤めている会社では、上司が3つか4つだけ年上というのもあり、フレンドリーであるという。Dnさんも大学に勤めていたときは、上司に対しては友達に話す言葉より少し丁寧な言葉を使っていた程度だったそうだ。理由としてロシアの場合、年功序列がそれほどないことがあげられる。では、Dnさんはどうやって日本語を覚えたのか。前にも述べたが、Dnさんはロシアで日本語の講師をやっていた。その前には大学で日本語を専攻しており、日本に留学もしている。「3年生のときは日常の会話位だったら、使えましたけど。4年生のときは、留学生として、富山大学に行きましたが、あのときはもうぐっと使えてました。」ここから大学在学中に日本語が達者になったことがわかる。覚えるのに苦労した点については、「が」と「は」のような助詞で、それはわかっていても無意識に間違えてしまうという。家庭では主にロシア語を使っているそうだ。しかし、De君が日本語を勉強しているため、日本語で言いやすい言葉は日本語で言うそうだ。「例えばですね、ロシア語に訳すと長すぎるものがあるんです。例えばコンビニとか。コンビニというのはロシアにはなくて、ロシア語に訳すと、(ロシア語でコンビニ)まあ、結構長い言葉になりますから。」と、丁寧に例まで出して説明してくれた。息子さんには日本語もロシア語も両方使えるようになってほしいですか。という質問には本人が納得していればという子供の意見を尊重した答えが返ってきた。しかし、ほかの言語を覚えれば考え方も広がり、将来に役立つかもしれないと言葉をつないだ。
 Dnさんの日本への興味は日本の文学作品を読んでいて沸いてきたようだ。芥川龍之介、大江健三郎、村上春樹、村上龍、吉本ばななといった日本の有名作家をならべていった。興味が出てからは、雑誌や新聞の日本に対する記事も読むようになってきたそうだ。日本に対してのイメージとしては近代的なイメージを持っていたらしい。「高い建物で、技術が非常に発達してきた国で、どこ行っても高い建物ばっかりで、まあ、面積が狭くて人口が多いですから、ほんとに東京のような、全日本土が東京のようなイメージがありました。」と述べたことからそれがうかがえる。Dmさんのイメージは「技術とか電気、電子とかどこに行ってもある、という感じもあって、それはほんとにお手洗いでも自動販売機とかもどこに行ってもあるし、それは当たったと思うんですけど。」と答えた。反対に日本人全員が武道をしているという間違ったイメージも持っていたそうだ。われわれが安直なイメージで中国人はみんな少林寺拳法をやっていると思うようなものだ。
 Dmさんが文化の違いで戸惑ったことはトイレだった。「あの、男性のお手洗いはドアがなくても、横を歩く、それはロシアだったらありえない。(中略)必ず、入り口も全く違うし。(日本の)どこかのカフェには、お手洗いに入ったら、男性の便所があって、まあ、行けば女性のもあるんです。同じ入り口、女性もその場所を通るとか、そういうことはロシアだったら全くないです。温泉では、掃除をするおばあさん達とか、男の温泉にも入られることもびっくりしました。」と語る。逆にわれわれが文化の違いで驚かされたのはロシアの交通機関だった。ロシアではバスの時刻表がなく、間断なく回り続けているらしい。本数が多いから困ることはないらしいが日本人から見たら違和感がある。Dnさんは、考え方の違いは日本に何回も来てるから区別ができないという。一方Dmさんのほうは、日本人は丁寧な言葉を使い、自分の考えを直に言わない(感情を出さない)ことをあげている。「例えばバス停とか店の中には、知らない人だったらあまり話とかはできない。それはまあ、丁寧な言葉だけ、だったらできるんですけど、生活についての話もできないし。ロシア人はそんなに丁寧ではありません。まあ、嫌いだったらそのまま言うし、それも失礼なことをすることもあるんですけど、例えばですね、店では長い列、になって待たなければならない場合は、前に立ってる人と後ろに立ってる人とが、声をかけて、何かを話すこともよくある。」確かに日本人は極力他人と話したがらない傾向がある。そこが彼には不思議に思えたのだろう。
 Dnさんたちはロシアのニュースを友人からのメールやインターネットで得る。彼女は仕事柄ロシアの新聞は読むが、日本語の新聞は読まない。Dmさんは会社からの回覧する記事でニュースを受け取っている。
 Dさんたちの医療保険について質問してみると、DnさんとDe君だけ保険証を持っていることがわかった。Dmさんは在留資格証明書もらって違うビザで来れば作れるそうだが、今は持っていないという。DnさんDmさんはこれまで日本で病院にかかったことはなく、De君が歯医者に一度かかっただけである。
 話題は日本での交友関係に移る。困ったときに誰に相談するかという質問には、ウラジオストクから来た友人と答えた。友人はDさんたちよりも長く住んでいるらしい。他には勤め先での国際課の人たちに相談することもあるという。そこでは日本人や韓国人、中国人、アメリカ人といった多種多様な人たちが働いている。ほかの外国人とのかかわりで、仕事とは関係ないところでは、アメリカ人やマレーシア人などの友人たちと家でパーティーをしたり、遊びに出かけたりする。よくつきあってるのは、8人か9人くらいだが、時には20人位で出かけることもある。仕事関係以外で、外国人の友達とはどうやって知り合ったのか気になったので聞いてみると、彼らとはJETプログラムや、国際祭りというイベントの2次会で知り合ったという。近所づきあいはあまりしていないようだ。ロシアでも山や村のほうに行けば近所づきあいはあるが、こういうアパートでは最初の挨拶ぐらいなものらしい。この辺は日本との差はなさそうだ。
 このアパートをどうやって探したのかという質問には、県が用意したものだと彼女は答えた。2つ候補があって、家族と相談した上でこちらに決めた。アパートの情報はどれだけ与えられていたかと質問すると、間取り、住所、交通機関、小学校との距離と情報を教えられていたと答えた。このアパートにする決め手となったのは小学校との距離だったという。これはDe君の学校はZ小学校がいいと県庁からの勧めがあったため、その近くのアパートを選んだのだという。富山県には外国人生徒の受け入れ体制がしっかりしているのはこの小学校を含めて2校しかないのだそうだ。
 滞在は何年になるか正確にはわからないという。「私の生活には変化が多くて、例えば一年間前は富山に来るとは思わなかったんです。だからどうなるかわからないです。」という言葉からもわかるように、なかなか変動の多い人生を送っているようだ。
 休日の過ごし方について質問すると、掃除や外出をするのだと答えた。大体11時か12時頃にでかける。例えば黒部とか、博物館、富山城の公園などである。また、友達が来る場合も多い。県外では家族で京都に行ったこともあるという。
 生活の慣れの違いという話題では、やはりDe君のことが挙げられた。彼はいきなり異国へ引っ越してどのような印象を受けていたのだろうか。DnさんはDe君は日本に対するイメージを持っていなかったと語る。「国が違うともちろん分かってたんですけれども、そんなに違うとは思ってなかったんです。建物の形とか、道通りとか、ロシアは、車が右側を走ってるんですけど、日本は左側とかそういう細かいところが、違うという心の準備をしてこなかった」。このため、初めの2日間は驚いてばかりだったらしいが、2週間ほどしたらもう慣れてしまったといった。
 話題は次第にDe君のことに移っていく。学校のことについて戸惑っていることはあるかと質問すると、「質問がよくわからなったんですが」と彼女は申し訳なさそうに言った。そこで、どんな小学校に通っているのかと質問を変えた。するとDnさんは日本語ができない子供達向けの日本語の指導があってよいと語ってくれた。国語と算数は別の教室で行い、体育とか書道は、それほど日本語がわからなくてもみんな、見まねして、できるもので、日本人の生徒達と一緒にやっているという。どうやら外国籍の子供を受け入れやすい学校のようだ。De君は、学校に行くことは友達ができることがいいとDnさんは言う。日本の学校制度に不満はあるかと、もう一回質問してみると、不満はないと答えた。ロシアの学校と違うところはあるが、違いは悪いことではないと言っていた。ロシア語を話せる先生はいないそうだが、説明してもらったものをDnさんが家でロシア語に直して教えるので不便はないという。学校でも先生がジェスチャーや絵を使って説明してくれるのでロシア語はあまり必要ないらしい。しかし、家庭での勉強法について、「一緒に宿題とかするとき、これはロシア語でこう言うんですとか、そういう風に言います。まあ、そうじゃないとロシア語も忘れてしまう可能性もあるし、言葉の意味が分かっても、ロシア語でどういえばいいのかわからないのもあるかもしれないから。それは必ず両方とも」とも話している。やはり、外国籍の子供は教育が大変そうである。
 外国人生徒のために時間外の特別な授業はないようである。「まあほとんど、外国人向きというより、ただ日本語覚えて早く、ここの子供達と一緒に授業ができるようになるための準備位でしょうか。」とDnさんは言う。学校は楽しいかという質問には本人が「ちょっと、楽しい。ちょっと、反対。」と答えてくれた。「反対」というのは特に日本の学校に対してということではなく、学校で宿題が出ること自体が不満ということだった。将来の夢はコンピュータゲームのプログラムや絵を描くこと。国はできるところならどこでもいいという。なんとも国際的な考えだ。学校では台湾人や中国人、日本人と遊んでいるという。あまり国籍は関係ないようだ。ロシアではサッカーとバスケットを少しやっていたようだが、2年生のときに日本に来たので、長くは続けていなかったようである。今は日本語を覚えるのに忙しいらしい。
 ここで、日本に来て一番よかったこととつらかったことを教えてくださいと3人全員に質問をした。Dmさんはよかったことに日本の庭園のすばらしさをあげている。人工的でなく、自然の特徴を見せる。逆につらいことはゴミの分別だそうだ。わざわざ牛乳パックやペットボトルを洗って、スーパーにもっていくのがつらいようだ。De君はよかったことはいろいろあるというが、例えば自動販売機があることがいいそうだ。ロシアには自動販売機がないので、喉が渇いたらすぐに飲めることがうれしいという。(これにはわれわれはかなりカルチャーショックをうけた。)つらいことは学校の終わる時間がロシアよりも日本の方が長いことだそうだ。「ロシアは12時とか1時、まあ遅くても1時までです。」とDnさんは言う。特にこの年頃の子にとっては、学校の時間が延びることはつらいことであろう。Dnさんはよかったことに、Dmさんと同じ庭園をあげている。つらいことについては、あまりないとはじめ言っていたが、そのあと思い出したかのように日本の冬と言った。「日本の冬は非常に寒いってことですね。まあ外が寒いってことじゃなくて家の中。ロシアでは10月の終わり頃から、必ずセントラルヒーティングが入っていて、24時間20度以上で。家に入ったらすぐ暖かいです。」どうやらロシアとは暖房設備の入れ方そのものが違うらしい。気温は確かに、ウラジオストクではマイナス5〜マイナス10度、シベリアではマイナス30〜マイナス40度と日本と比べ物にならないほど低い。しかしロシアは日本よりも乾燥していて、風も吹かないので日本の方が楽だとDmさんは言った。
 一通り質問が終わると、われわれはお礼を言ってインタヴューを終了した。