第2節 愛しき子供と悩ましき漢字

 

嶋田 翔太  堀田 潤

 

 Bさん一家は三人で暮らしており夫の日系二世のBeさん(30歳・ブラジル国籍)、妻の日系三世のBuさん(29歳・日本国籍)、その子供のBrくん(5歳)が富山市の郊外に一軒家を構えて住んでいる。我々は空間を活かした広々とした家の中に招待され、二階まで天井が吹き抜けている開放感のある居間でインタビューを行った。
 夫のBeさんはブラジルの大学で会計の勉強をしていたが資格をもらう前に出稼ぎのためにと、母親の反対がありながらも20歳の1995年の正月に来日した(成人してからの来日のため国籍の選択権がなかった)。すでに日本で働いていた父と同じ派遣会社に入り、派遣会社が用意してくれた貸家に住みながら、バスユニットを製造している会社で二ヶ月半勤務していた。その後、父が勤めていた道路舗装会社に派遣会社に紹介してもらい、現在に至るまで約10年の間働き続けている。
 妻のBuさんはブラジルのスーパーで電話の受付をしていたが、出稼ぎのため17歳の1994年に来日(未成年で来日のため国籍選択権があり日本国籍を取得)、友達の勧めで愛知県豊田市の工場でエアバックの製造に携わっていた。2年が経ち1996年、富山のプラスチック産業のほうが需要があり給料が良いと友達から聞き、富山のとある会社でプラスチック製品製造の仕事に転職した。日本に来て約4年の1998年、家族に会いたくなったBuさんは仕事を辞めブラジルの実家へ帰郷した。六ヶ月家族と共に過ごし、再度日本へ行くことを決め、1998年の6月再び日本の土を踏んだ。しばらくは砺波の会社が用意したアパートに住んでいたが、すぐには仕事ができないと言われ、妹に働いていた会社を紹介してもらい、仕事を始めた。仕事の内容は以前と同じくプラスチック製品の製造であったが、忙しくはなく、座ってできたので、楽に仕事ができるようになった。
 Buさんが二度目の来日をしてからしばらくして、二人は出会い1999年の11月めでたく結婚、Buさんは子供を身ごもり結婚をしたということで市営住宅に入る権利を得て、夫婦の同居生活が始まった。まもなくBuさんは男の子を出産、Beさんの母にBrの名前をつけてもらった。
 Beさんもまた仕事に精を出し2005年の2月、二人はBeさんの仕事場からほど近いところにある富山市郊外にマイホームを購入。Buさんは新たに子供を身ごもり、2006年の4月に女の子の出産を控え現在に至るのである。
 一家は子供が病気にかかったら大変だからと社会保険にも加入している。後に詳しく聞いた話だが、Buさんは豊田に来日してすぐ国民保険に入り帰国時に保険を解消。妊娠の際は、以前指の怪我をしたのをきっかけにすでに加入していたBeさんの保険でまかなった。Buさんが現在の仕事に就いて1年ほど経ったとき、会社から社会保険に加入しなければならないと言われ、国民健康センター、市役所で手続きを済ませた。現在病院にかかるのは、Brくんが風邪をこじらせたときや喘息の薬をもらうときである。
 このように、Bさん一家は日本とブラジルの生活のギャップに悩まされることもなく、社会制度的にもさほど問題なく適応しており、何ら問題なさそうに見えるのだが、そんな一家にも頭を悩ませる種がある。
 Buさんは日系二世の父親とブラジル人の母親を持ち、家ではポルトガル語で会話がなされていた。日本語は、日本に来てから周囲の人が話しているのを聞いて覚えたのでそれほど堪能ではない。Beさんは日本人の両親を持つ家庭で育ち、ブラジルの家では日本語で話していたので、普段使う言葉なら話すことができたが仕事関係の道具等の言葉は知らず多少苦労した。だが、現在は支障なく仕事をこなせるようになっている。夫婦同士ではポルトガル語で話し合い、日本人との会話ならば、我々がインタビューに伺ったときのように、Beさんが通訳をする形でこなすことができる。しかし、二人とも日本語学校などには通っておらず、本格的な文字の勉強をしていないため、読み書きができない。そのため、Brくんが保育所から持ってくる書類や市役所の書類などがよく読めないのである。そんな困ったときは、Beさんが派遣会社に勤めていたときに知り合ったYさんを頼って読んでもらう。Brくんの喘息がひどくなったときも通訳として病院に同行してもらった。Yさん一家とはそんなこんなで何度も顔を合わせ、家族ぐるみの付き合いになっている。
 一方、息子のBrくんはというと、日本生まれの日本育ちなので日本語をしゃべるのには苦労はしていない。だが数ヶ月後に小学校に入学を控えているのに、ひらがなやカタカナを覚えていないことを、両親は心配している。Beさんは、Brくんに教えられるくらいには日本語を覚えたいということで、漢字の習得に意欲的であった。
 日本語の読み書きができず苦労はしているBさんたちであるが、日本に来ていいこともあった。Beさんは一生懸命仕事して、欲しいものが買えるのが嬉しいと言った。大好きな車のことを考えていると辛くはなく、むしろ楽しかったと述べた。Buさんは今まで仕事を続けてこれたことがよかったと述べた。ただ次の出産がBrくんの小学校入学と重なっており不安であるとも二人は答えた。
インタビューが終わり我々はしばらく夫婦と雑談を交わした。日本の小学校のこと、ブラジルの治安のことなど互いに知りたいことを聞いていると、途中Beさんが「ちょっといいですか」と立ち上がりFAXの説明書を見せた。どうも説明書を読むことができず使い方が分からないとのことで、私は説明書をめくりながらFAXの操作をeさんに教えた。日常会話ができても、漢字が読めないことで生じる苦労の一端を知った瞬間であった。
 その後また雑談に戻り、外も暗くなってきたころで我々はB家を後にした。