鴎外のドイツ留学ージェンダーの視角からー
                    
金 子 幸 代

 日本文学研究において1990年代からフェミニズム批評が盛んになった。
90年代末から2000年に入っては学会でもジェンダー論を取り入れた特集が組まれる
ようになってきた。そこで、ここでは森鴎外の異文化体験から考えてみたい。

 鴎外がドイツに留学したのは1884年から1888年にかけてのことである。とりわけ女性の視点から考える時に見過ごすことができないのはドイツ女性解放運動との邂逅である。当時のドイツには、ルイーゼ・オットー・ペータースが主宰するAllgemeiner Deutscher Frauenverein 「ドイツ婦人会」があった。「ドイツ婦人会」は、1865年に設立され、女性の教育向上と仕事の門戸開放を推進することを目的とするドイツ初の女性団体である。鴎外は留学したライプチヒで偶然にもルイーゼの親戚筋の家に昼夜の食事に通っていた縁で、第13回「婦人総集会」を傍聴する機会を得た。 第13回「婦人総集会」を報じた1885年のライプチヒの新聞によれば、出席者100名のうち男性はわずか10名程度であったことがわかる。鴎外はわずか10名程度の男性聴講者のひとりだったのである。しかも男性の聴講が許されたのは10月28、29日の2日間だけであり、その2日間とも鴎外は聴講に通っていた。鴎外は集会でヨーロッパの中でもゲルマン民族が保守的で女性の地位も低く、不利益を受けていたことを知った。問題解決に向けて、職業教育の整備や哲学、医学、薬学、自然科学を学びたいという女性への大学の門戸開放などを議論するドイツ女性の真摯なに接し、女性問題に対する関心の目が開かれる大きな契機ともなり、帰国後の鴎外の発言の中にも見出すことができる。
 鴎外が日本に帰国した1888年は、廃娼運動が各地からおこり、「破竹の勢い」で高揚した年であった。帰国後の鴎外の発言の中でも注目されるのは、『舞姫』発表の前月、1889年12月に第日本衛生会で行った「公娼廃後の策奈何」と題する講演である。最初の講演予定では「家を暖むる法」について述べることになっていたが、講演日前日の午後に「女学雑誌」に掲載された婦人矯風会と婦人白標倶楽部連合の発起会での島田三郎と植木枝盛の演説を読んで「心中窃に感」じ、急きょ演題を「公娼廃後の策奈何」に変更したのだった。
 講演の中で鴎外は、島田三郎や植木枝盛らが廃娼を急ぐ余りに公娼廃止後の具体的な対策をたてないことを批判し、むしろ廃止後の対策を急ぐことこそが必要だと説いている。従来、衛生学や医学の立場からは存娼論が主流であった。鴎外は存娼論の論拠について欧米の例を紹介しながらも、「余は医なり余は衛生家なり而れども余は亦た人なり」と述ベ、人間としてこの問題をどうすべきかを考えると述ベ、人権尊重の立場から廃娼論を展開した。ドイツの統計を例にあげながら公娼廃止には何よりも経済的自立をするための教育が必要であることを説いた。
 さらに鴎外は「衛生新誌」に「公娼廃後策とフリイドリヒ、ザンデルと」(1889・6)や「公娼廃後策の原材」(1890・5)を発表し、女性が自活するための職業教育の整備を訴えた。鴎外がドイツ留学時代に参加した「ドイツ婦人会」の集会では高等教育を受けた女性の職業の必要が専ら議論されていたが、貧困家庭の女性たちにあってはなおさら生活していくための職業教育の方策を進めることが急務であることを、鴎外はドイツの例をひきながら訴えているのである。このように、鴎外のドイツでの異文化体験の中でも「ドイツ婦人会」の集会から学んだものは大きく、「女薬剤師」(「衛生療病誌」1890・9)も発表し、女薬剤師無用論に一失報い、女性が職業につくことを奨励した。 189O年代になると、女性たちが次々に筆をとり、女性作家誕生の時代を迎える。文壇では「閨秀作家」ともてはやしたが、鴎外は女性という枠組みでもてはやす風潮と一線を画した評論活動を行っている。鴎外が先ず逸早く評価したのは、清水紫琴の『こわれ指輪』(1891・1)である。清水紫琴は、景山英子とともに女権拡張運動に活躍し、「女学雑誌」の記者から後に主筆となった。『こわれ指輪』はスイスの女権論にも触れ、愛のない形ばかりの結婚生活をただ耐え続けることの無意味さを説いた小説で、紫琴の処女作ある。鴎外は早速、『文則』(1891・2)において『こわれ指輪』を取り上げ、叙情的ながら「人を動か」し、言文一致体で自然の言葉づかいが用いられており、今後小説の技巧が熟練すれば更なる作品ができるだろうと高く評価した。
 とりわけ1890年代の女性作家で高く評価したのは、『たけくらベ』(1895.1〜3,8,11〜1896.1)を書いた樋口一葉である。「三人冗語」(「めさまし草」1896.3〜7)の中で、鴎外は『たけくらベ』を評し、「われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人という称をおくることを惜まざるなり」と述べているが、当時の文壇にあっては、女性の作品に対して毀誉褒貶が多く、的確な評価がなされていないことヘの批判も込められていた。また『われから』(1896.3)の批評においても、鴎外は「女人なればとて今迄は控へたるの一言はひいきの一分として聞き捨相成らず。我が一葉は女なれども、身銭を遣ひしことも無くて、高慢なことを云ふ男どもの首ぐらゐは引抜き捨つる力あり。悪きことは容赦なく云はるべし。御遠慮御無用。女あしらひは嬉しからず」と、女だからという色眼鏡で作品を見ることの無意味さを説き、一葉自身も女故の評価を喜ばないと述べている。
 1911年9月に平塚らいてうが主宰する日本における初めての女性たちによる雑誌「青鞜」が創刊されると、鴎外は妻の志けや妹の小金井喜美子が「青鞜」の賛助員になるのを賛成して応援した。その後、らいてうは1919年には「婦人、母、子どもの権利を守る」運動体となる新婦人協会を結成する。会の結成にあたり趣意書から規約まで丹念に読んで「朱筆までして直してくれた」(『文学散歩』1962・10)と、鴎外の女性解放運動へのきめの細かい助言や援助があったことを、らいてうは証言している。
 さらに、尾竹紅吉が主宰する女性の純文芸雑誌「番紅花」創刊号(1914・3)に随筆も寄稿している。この他にも「番紅花」には毎号のように、海外の女性たちの運動の進展を紹介する「海外通信」を執筆しただけでなく、翻訳を寄稿するなど女性雑誌への積極的な応援した。森鴎外というとこれまではむしろ保守的な鴎外像が流布していたが、実際には、女性の文芸雑誌「番紅花」への寄稿などに見られるように伸びて行こうとする女性たちを応援し、海外の女性解放運動の紹介を積極的に行っているのである。
 21世紀は女性の時代といわれているが、ジェンダーの視角から鴎外を問い直すこと、それは新しい世紀を切り開く叡智を育む力になるだろう。

註 金子幸代「鴎外の女性論」参照(『論集  森鴎外ー歴史に聞く』所収、2000.5 新典社)