卒論作法


1、「論文」とは何か
2、テーマをどうする
3、「できないこと」はしない。テーマは「狭く深く」

4、「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」
5、批判は罵倒にあらず
6、論文の「お作法」
7、「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」


1、「論文」とは何か

 卒業研究はその成果を「論文」にしなければ、成績を認めてもらえません。そこで皆さんは「論文」を書かなければならないのですが、ではそもそも「論文」とはどんな文章なのでしょうか。
 「論文」を辞書的に定義すれば、「研究を行った結果得られた独創的な成果をまとめた文章」ということになります。しかしこう聞いてすぐにピンと来る人は少ないでしょう。そこで具体例を挙げてみましょう。

 例えば杜甫について興味を持ち、卒業論文を書いたとします。その結論が

 「杜甫の詩はどれを取っても苦渋に満ちていて、読むほどに涙を誘う。これほど優れた詩を残しながら、家族とともに流浪し、苦難の生活を強いられ、官僚としても出世できなかった杜甫はかわいそうだ」

というものだったらどうでしょうか。これでは単なる「感想文」で、論文とはとても呼べない代物です。なぜなら杜甫の詩を読んで「感じたこと」しか書かれておらず、杜甫の詩から導き出せる「客観的な事実」が書かれていないからです。論文とは「誰が見ても納得できる、客観的な根拠のある事実」を書くものであって、「自分一人だけの感想」を書くものではありません。

 では次のような結論だったらどうでしょうか。

 「杜甫の詩は鋭い現実批判の精神にあふれていて、自由にものが言えなかった封建社会において、圧政に対する最大限の抵抗を行ったといえる。これは大変勇気ある行為であり、大いに称賛されるべきである。この精神は現代においてもなお通用するものであり、杜甫の偉大さは不滅であるといえよう」

これなら立派な「論文」ではないかと思う人もいるかも知れません。しかし残念ながら、こういう文は論文とは呼ばず、「評論」といいます。評論とは「物事の善悪や価値判断を論じた文」のことです。この文の場合は、最初の一文は確かに客観的事実です。しかしその後の文は善悪や価値の主観的な判断で、こういったことを結論にすれば、それは評論になってしまうのです。論文はあくまで「誰が見ても納得できる、客観的な根拠のある事実」を書くものであって、善悪や価値判断を書くものではありません。もっとも論文の中で、オカズ的に価値判断を入れることはあります。しかしこれは高等な技術に属するもので、初心者はむやみにまねをしない方がいいでしょう。

 ではどんな結論なら「論文」と呼べるのでしょうか。一例を挙げてみましょう。

 「杜甫の詩においては『詩経』の詩句が巧みに引用されているが、とりわけ邶風『柏舟』からの引用が多い。この詩は古注では不遇な官吏の嘆きを歌ったものとされており、杜甫は己の不遇への嘆きを効果的に表現するために、この詩を盛んに引用したものとみられる。」

どうでしょうか。ここに書いてあるのはすべて「客観的な根拠のある事実」であって、感想も価値判断も書いてありません。論文とは調べた事実を積み上げて実証的に結論を導き出すものなのです。

 皆さんも卒業研究では「論文」を書くように心がけましょう。感想文や評論を「卒論」と称して提出するのは、カラスをサギと言いくるめるに等しい、まさに詐欺的行為です。

2、テーマをどうする

 さて論文を書くには、まず「何について書くか」を決めなければなりません。ところがここでつまずいてしまう人がとても多いのです。どうしてでしょうか。それはひとえに「日ごろから中国文学に関心を持って勉強していないから」と言うほかありません。日ごろから勉強していれば、好きな作家や作品の一つくらいはできているはずです。

 もし好きな作家や作品があれば、その作品をじっくり読んでみましょう。そうすれば疑問点の一つや二つは出てくるはずです。「どうしてこの言葉はこんなに頻繁に出てくるのだろうか」「どうして月を詠んだ作品が多いのだろうか」「どうしてこの作家はこの時期に作風が一変したのだろうか」……。

 こんな疑問が出てきたら、それを本に書き込んでおくなり(図書館の本には書き込まないように!)、付箋を張っておくなり、抜き書きしておくなりして、忘れないようにしておきましょう。それらについていろいろ調べてみて、結論が出そうなものを卒論のテーマにすればいいのです。

 好きな作家が見つからないという人は、もう一度概論のレジュメや『中国文学概論』(朋友書店)などを読み返してみましょう。その中から気に入ったものを見つけることです。卒論ゼミの期間はそのために設けられていると言っても過言ではありません。この間に研究したい作品を読破しておけば、卒論作成はずっと楽になります。

 とにかく研究したい作品を読み通すこと、これが卒論作成の第一歩です。
  
3、「できないこと」はしない。テーマは「狭く深く」

 
卒論のテーマには「できないこと」を選んではいけません。4年次の4月末には卒論の題目を決めて提出しなければなりませんが、卒論ゼミで自分の関心ある分野をしっかり見極めなかった人ほど、やたらと大風呂敷を広げたテーマを選ぶ傾向があります。曰く「中国文学における女性像」「中国の武術史」「志怪小説について」……。

 こんなタイトルで1年以内に論文を書けと言われたら、私でもとてもできません。しかもこんな大きなテーマは、10年以上かかって1000ページくらいの本にまとめるような難題であって、400字詰め50枚程度の論文におさまるような代物ではありません。「中国文学における女性像」なら、古代から現代までのありとあらゆる文学作品を読み、そこに現れた女性像を丹念に追って行かなければなりません。「中国の武術史」なら、古今の武術に関する文献を集め回ることから始めなければなりません。日本の図書館を回るだけでは到底足りず、中国の図書館や、武術家を訪ね歩いて文献を捜索しなければならないでしょう。そして今度はそれを読み解かなければならないのです。それこそ一生ものの大仕事です。「志怪小説について」でもまだ大風呂敷です。『捜神記』や『捜神後記』をはじめとする膨大な作品群を1年やそこらで読破することは到底無理です。

 ではこれらを「できること」にするにはどうすればいいのでしょうか。それにはテーマを「狭く深く」絞り込む必要があります。例えば「白居易の新楽府における女性像」というように、時代とジャンルを絞り込むのです。卒論ゼミの間に自分の関心がはっきり定まって、実際に文献を読破した人なら、題目を決める時点で、自然にこの絞り込みができているはずです。

 テーマを選ぶ際には「一人の作家」または「一つの作品」、あるいは「一つのキーワード」を取り上げるように心がければ、大風呂敷を広げずに「狭く深い」研究ができるようになります。大きなテーマは長年研究を続けて幅広い知識を蓄えた大学者でなければ太刀打ちできません。しかしある限られた分野を狭く深く掘り下げれば、皆さんでも大学者をうならせる研究ができる可能性があるのです。

 ところで当コースは女子学生の割合が高く、勢いテーマも中国の女性へと向かう傾向があるようです。そこで歴史上の女性の伝記を追っていこうとする学生がよくいるのですが、私はあまり感心しません。なぜなら素人がこうしたことを手がけると、ほとんどは単なる「感想文」か、良くてせいぜい「歴史小説」や「ノンフィクション」のレベルで終わってしまうからです。司馬遼太郎や宮城谷昌光の小説は、確かに「小説」としてはすぐれていますが、それを「論文」として高く評価する学者は一人もいません。歴史の「もしも」をいろいろ想像するのは楽しいことですし、なぜこんな人生を歩んだのかを考えてみたくなる心情も理解できます。しかし「想像」は所詮「想像」であって、それだけでは研究にはならないのです。

 もし歴史上の女性に焦点を当てるのなら、単にその伝記をなぞるのではなく、彼女の書き残したものからその心情を推し量ってみるとか、彼女について書いた史書や詩歌・小説から、その描かれ方が時代によってどう変わっていったかを探るという方向で考えてみる方が、より成功する確率が高くなります。自分の興味あるテーマを選ぶのは大いに結構ですが、しかし「好き」だけで論文は書けないこともあります。日本の平安朝とは違って、近世以前の中国には女流文学というジャンルは確立しませんでしたから、中国古典文学で女性を取り上げることは「魅力的だが困難を伴う」テーマであるということを強調しておきます。なお女性の中国研究者が中心となって作った「中国女性史研究会」という研究会がありますから、中国の女性についてどういう研究テーマがあるかを知るためには、同会のホームページや機関誌を見てみるのもよいでしょう。

4、「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」

 
これは『論語』為政篇の有名な一節で、「師や書物の言うことをただ覚えるだけで、それを自分でよく考えないのでは、学識が暗くて真理が見えてこない。自分勝手に思索するだけで、師や書物から学ぼうとしないのでは、独り善がりに陥って危険である」という意味です。この教えは論文を書く時にも十分肝に銘じなければならないものです。

 論文を書くには、研究したい原典を読み通すと同時に、それに関する先人たちの研究をよく読んで理解しなければなりません。論文とは「独創的な」研究成果を書くものであって、どんなにすばらしい内容でも、既に誰かが言っていることを書いたのでは評価されません。オリジナリティを出すには、先行研究をよく消化した上で、それらが見落としていることを指摘したり、それらとは違った角度から研究したりする必要があるのです。ですから論文では最初に先行研究の内容を紹介し、それぞれの問題点を指摘した上で、自分の考えを述べるというスタイルをとるのが普通です。(このように言うと、先行研究の紹介に紙幅の大半を費やして、自分の考えはほんの少しちょろちょろと述べているだけの、頭でっかちな論文を書く人がよくいますが、これでは本末転倒です。目的は自分の考えを述べることであって、先行研究の紹介が目的なのではありません。)

 ここで『論語』の教えが生きてきます。先行研究を鵜呑みにして、ひたすらそれを墨守し、反対説の攻撃に終始するのは、まさに「学んで思わない」態度です。逆に「古い研究なんかクソ食らえ、自分の考えこそが大事だ」とばかりに、先行研究を全く無視しようとするのは、まさに「思って学ばない」態度です。どちらも論文を書く上では厳に戒めなければなりません。

 「もし私が人よりも遠くを見たとしたら、それは私が巨人たちの肩に乗ったからだ」――これはニュートンの言葉です。ニュートンのような大学者であっても、その偉大な発見は先行研究という「巨人たち」のおかげだというのです。いわんや凡人の我々が「巨人たち」の肩に乗らずに遠くを眺めることなどできようはずはありません。「よく学び、よく思う」ことこそが、研究を行う上で大切なことなのです。

5、批判は罵倒にあらず

 
前章で述べたように、先行研究の「批判的継承」は、研究を行う上で欠くことのできない態度です。ところが「批判」と聞くと、すぐに異説を口を極めて罵ることだと勘違いする人がいます。例えばこんな具合です。

 「A氏の説は人を馬鹿にしたような考えで話にならない。B氏の説は全く時代錯誤で、石頭というほかない。C氏の説は根本的なところでミスを犯しており、これでも学者かと疑いたくなる」

どうでしょうか。A・B・Cの諸氏に特別な感情を持っていなくても、こんな文を読めば気分が悪くなることでしょう。もし「大学者面しているジジイどもをなで斬りにして痛快だ」などと思うようなら、あなたは既に地獄への第一歩を踏み出しています。

 学問における「批判」とは、あくまで「根拠を挙げて理性的に誤りを正す」ことです。むきになって感情的に罵倒することではありません。「感情」は論文にはなじまないものなのです。先に挙げた例は「罵倒」であって、断じて「批判」ではありません。

 従ってこの3氏を「批判」したければ、次のように書かなければなりません。

 「A氏の説は○○という概念を導入したことは評価できるが、××という点から考えると説明がつかない。B氏の説は卓見ではあるが、儒教道徳に偏りすぎている面がある。C氏の説は△△という点ですぐれているが、□□という点から見るとなお問題がある」

感情は一切排して、よい点も悪い点も公平に評価し、根拠を挙げて問題点を指摘するのが、正しい「批判」のしかたです。

 学界では考えの違う人を感情的に罵っても、自分の格は上がらないどころか、まともに相手にされず、総スカンを食うだけです。「理性」と「感情」の区別をきっちりつけられないと、学問の世界だけではなく、社会へ出てからも無用の敵を増やすことになりかねません。今からしっかり訓練しておきましょう。

6、論文の「お作法」

 
どんな文章にも、一定の書き方というのがあります。手紙には手紙の、ビジネス文書にはビジネス文書のスタイルがあります。同様に論文にも書き方の「お作法」があります。

 論文には序論・本論・結論があって、本論はさらに章に分かれ、末尾に注と参考文献を載せる、……といったたぐいのことは、生協などで売っている「論文の書き方」の本に詳しいですから、ここでは述べません。ただこうした本は主に理系の論文を対象にしているもので、文系、特に中国古典の分野では独特の「お作法」がありますから、ここではそれをいくつか挙げておきます。

(1)引用した原典は原文と書き下しまたは訳を書く
 中国古典文学の論文では、原典の文をそのまま引用して説明することがよくあります。こういう場合は、「原文」と「書き下しまたは現代語訳」を両方書くのが鉄則です。これは「原文をちゃんと自分で考えて訳しました」ということをはっきり示すためです。両方とも本文中に書いてもいいですし、「書き下しまたは現代語訳」を本文に書いて、「原文」は注に書くという形でもかまいません。但し詩などの韻文の場合は、両方とも本文中に書くのが普通です。

(2)白文の原文には句読点を付ける
 引用する原典は、常に句読点が付いているとは限りません。句読点のない白文を引用しなければならないことも多々あります。こういう時は必ず自分で句読点をつけてから引用します。そうしないと読者に不親切ですし、「自分で読み方を考えていません」と自ら表明しているようなものです。

(3)原文は旧字体を用いる
 古典の原文を引用する際には、旧字体を用いるのが望ましいとされています。これは「辯」「辨」「瓣」→「弁」、「缺」「欠」→「欠」などのように、複数の旧字体を一つの常用漢字体にまとめてしまったものがあるので、常用漢字体を使うとどの旧字体に該当するのかわからなくなるためです。『東方学』『日本中国学会報』などの権威ある学術雑誌では、全部の漢字を旧字体に統一していますが、そこまでしなくても、最低限引用した原文は旧字体で書くようにすべきです。

(4)本文中の数字は漢数字を用いる
 中国古典の用語の中には、数字が含まれるものがたくさんあります。例えば「二十四史」「六朝」「建安七子」「三吏三別」などですが、これらの数字は当然漢数字を使わなければなりません。「24史」「建安7子」などと平気で書く人がいますが、これでは数字だけが浮いてしまい、甚だ醜悪です。そもそも中国古典に算用数字はなじまないものですから、章建てに使う以外はすべて漢数字に統一したほうがすっきりします。

(5)引用論文の書名は省略しない
 理系の論文では、論文を引用した時、「大野,1998」というように著者名と出版年のみ注記して、論文の題名や雑誌名などは末尾の「参考文献」の項に一括して書くという方法がよく行われます。中国語学の論文でもこのスタイルを採る人がいますが、中国文学の論文ではこの方法はほとんど行われません。引用箇所に注をつけて、注で題名・著者・雑誌名・出版社・出版年月を書くのが普通です。

 他にもいろいろありますが、それらは実際に論文をいくつも読めば自然に飲み込めてくるものです。しかし何よりも大切なのは、「まずは形にとらわれ過ぎずに書いてみる」ということです。形式だけ整っていても、内容がなければ何にもなりません。最初は書きたいように書いてみて、それから形を整えていけばよいのです。

7、「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」
 
 
これは『論語』為政篇の一節です。皆さんのほとんどは論文を書くのは初めての経験でしょう。当然わからないことがたくさん出てくるはずですし、煮詰まってしまったり、内容がふくらみすぎて収拾がつかなくなったりすることもあるはずです。卒論指導の時間はこういう時のためにあります。わからないことを質問するのは少しも恥ずかしいことではありません。知らないことを知ったかぶりするのではなく、何を知っていて何を知らないかを見極めることこそが、知るための第一歩です。実際立派な卒論を書いた人ほど、盛んに質問に来て先生を「活用」しているのです。せっかく学費を払っているのですから、先生は大いに「活用」しましょう。

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