トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :

最後に感想


■学問の厳しさと喜び

 これまで学者を料理人や職人になぞらえて、「プロの技」は素人の思いつきで否定できるものではないということを縷々述べてきました。こうして考えてみると、「学問とは芸事である」ということを痛感させられます。芸事も料理も工芸もスポーツも、そして学問も、一つとして修業なしに一人前になれるものはありません。

 スポーツ選手は日々厳しいトレーニングを積んで、初めて一流になれます。そしてその苦労話に人々は素直に感動の涙を落とします。芸事でも厳しい稽古を経た人の芸に人々は惜しみない拍手を送り、料理でも厳しい修業をくぐり抜けた料理人の作る料理に人々は舌鼓を打って喜びます。
 ところが学者の場合はそうはいきません。大学院で厳しい研鑚を経た学者に対して、やれ「頭が固い」の、やれ「何の役にも立たない」の、やれ「象牙の塔」だと侮蔑の視線を送る人が少なからずいます。「学問」が一般には「芸事」だと理解されていない証といえそうです。
 それは学問など我々には「何の役にも立たない」からだ、と言う人もいることでしょう。しかし考えてみればスポーツも我々にとっては「何の役にも立たない」ものです。イチローが何本ヒットを打とうと、オリンピックで日本チームが何個メダルを取ろうと、それで我々の暮らしがよくなるわけではありません。それにもかかわらず人々が熱狂するのは、やはりスポーツが「喜びと感動」を与えてくれるからでしょう。
 学問でも昔は万人の尊敬を集める大学者がたくさんいました。寺田寅彦、湯川秀樹、そして宮崎市定、吉川幸次郎……。彼らは皆一般向けにも面白くかつ格調の高い著作を提供し、学問の喜びを多くの人々に伝えようとしたことが共通しています。そして今学者が尊敬を失い、一方で「研究ごっこ」がはびこるのは、「本物」の研究の何たるかを人々に伝えることを、古代研究者の多くが(すべてとは言いませんが)サボり続けてきたのも一因ではないかという気がします。「本物の職人技」、そして学問の「喜びと感動」を一般の人々にもわかりやすく伝える努力が、これからの学者にはますます求められることでしょうし、私も努力したいと思います。

■人は信じたいウソを信じる

 そしてもう一つ強く思うのは、人間には「願望と反対の真実よりも、願望にかなったウソを信じる」という、いかんともしがたい性癖があるということです。この性癖に対して無自覚であると、「研究ごっこ」に騙されたり、自らが「研究ごっこ」にのめり込んだりするばかりか、甘い夢物語を並べた誘惑に引っかかって、詐欺や悪徳商法の被害を受けたりすることにもなります。この性癖を克服するには、やはり「確かな根拠に基づいて、論理的に物事を考える」習慣を養うのが一番です。本稿がその第一歩となれば幸いです。
 かく言う私自身も中学生の頃には、今となっては徹頭徹尾デタラメだったことが証明された五島勉の「ノストラダムスの大予言」シリーズを、かなり真剣に信じていたものです。当時いじめられっ子だった私には、「世界は滅びるが一部の人は生き残り、今度こそ真に住みよい社会を作るだろう」という予言の解釈はとても魅力的でした。正しい自分は生き残る、悪い奴等はみんな滅べ、という「願望」が、このトンデモな本にのめり込ませる原動力だったのでしょう。その当時オウム真理教が私の身近にあったらどうなっていたかと思うと、空恐ろしい気がします。
 私が学問をやって一番よかったと思うのは、何と言ってもイデオロギーや信仰によらず「確かな根拠に基づいて、論理的に物事を考える」習慣を身につけられたことです。もし学問の道に進んでいなかったら、私も何かの拍子にトンデモ「研究家」の仲間入りをしていたかもしれません。だからこそトンデモな道に転落する人が一人でも少なくなってほしいと心から願っているのです。

■いい加減な情報の洪水から身を守ろう

 「研究ごっこ」を「ごっこ」の範囲内で楽しむ分には、何も問題はありません。私も酒のさかなに古代へ好き勝手に空想を巡らせることにまで目くじらを立てるほど野暮ではないつもりです。しかし時代の気分と「研究ごっこ」がうまくマッチしてしまうと、世論全体、さらには政治をも動かす力を持ちうるのは、「学問」としては全く相手にされていない小林よしのり氏や西尾幹二氏の一派の言説が隠然たる影響力を持ってしまっていることを見ても明らかです。加えて近年では「売れること」が至上命令のマスコミも出版も、いい加減な情報をろくに吟味もせず垂れ流す傾向が強まっていますから、そうした情報の洪水に巻き込まれないためには、我々の側で論理的思考と教養を身につけ自衛するしかありません。そう考えれば「本物」のよさと面白さを伝えることはまさに焦眉の急務で、他の学者が面倒がってあまりやりたがらないウェブサイトをあえて作っているのも、そうした思いからです。本稿が「本物」の学問の喜びと感動を一人でも多くの方が味わうきっかけとなれば、望外の幸いです。

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