トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :

それではアマチュアはどうすればよいのか


■アマチュアは皆トンデモ?

 これまで文献研究がいかに厳しいものであるかを述べてきました。しかしアマチュアの皆さんの中には、「そんなことを言われたら身もふたもない」「老後の生きがいを奪わないでほしい」という方もおられると思います。

 私も「アマチュアの研究家は皆トンデモだ」などと言うつもりはありません。例えば郷土史のような分野では、史料を入手しやすい地元にいる強みを生かして、立派な業績を上げているアマチュアの方がたくさんおられます。しかしそうした分野であっても、古文書の読み方などの基本的な「技術」をきっちり修得していることが必須条件になりますし、そうした「技術」はプロに学ばなければ身につかないものです。
 私の専門である中国古代文学では、アマチュアの業績で比較的ましなのは、黒羽寧『中国と日本の神話と文明』(西田書店、1987年)が管見に入った唯一のものです。奥付によれば著者はもと小学校の校長で、定年後モンゴル史学者の故小林高四郎氏や神話学者の故大林太良氏の指導を受けたということです。しかしこれとてあくまで「まし」であって、積極的に高く評価しているわけではありません。例えば中国古代神話の三皇のひとり伏羲が、この本では1か所残らず「伏義」と書いてあります。これは恐らく誤植ではなく、著者の勘違いでしょう。「羲」は「義」の旧字体ではなく、全くの別字です。論の中心となる神の名を間違えているようでは、見識を疑われても仕方のないことで、「ちょっとしたミス」と笑ってごまかすわけにはいきません。この本は部分的にはなるほどと思わせるところもあるのですが、こういう初歩的なミスが多い上に、最終的な結論もかなり強引なものがあるので、残念ながら参考文献として引用するには恥ずかしいものです。しかし高名な学者に指導を受けたからこそ、学部の卒業論文程度なら十分通用する、どうにか研究の体をなしているものが出来上がったのです。

■プロに認められるには

 アマチュアがプロに認められるにはどうすればよいか、もうおわかりのことと思います。それは
「プロの指導を受ける」
これに尽きます。全くの独力でアマチュアが立派な業績を上げようとしても、独り善がりになるのは避けられません。
 しかし中には「大学の研究室に論文を送ったのに無視された。どうやってプロの指導を受けたらいいのか」という方もおられると思います。
 プロの指導を受ける最良の方法は、正規学生、科目等履修生(以前の聴講生に当たるものです)、研究生など何らかの形で、指導を受けたい先生がいる大学に潜り込むことです。大学に在籍する学生を指導するのは大学教員の義務ですから、確実に指導してもらえます。但しこの場合も、自分の意見にばかり固執していると、愛想を尽かされるおそれがあります。批判は素直に受け入れる柔軟さが、研究には不可欠です。
 次善の方法としては、指導を受けたい先生に論文を送ってみることです。但しその場合もむやみに送り付ければいいというものではありません。大学教員も昔と違って多忙な日々を過ごしています。その合間を縫って論文を見てもらおうというのですから、一定の礼儀は守らなければ相手にされません。
 まず第一に、あくまで「教えを請う」という姿勢を強調することです。「こんな画期的な論文を書いたぞ。お前の研究は間違っている。どうだ反論してみろ」といった調子で、挑戦状を叩きつけるような態度をとる人がいますが、これでは狂信的なトンデモ「研究家」とみなされて、間違いなく無視されます。「自分は今までどこそこで学び、どんな研究をしてきた、このたびこんな拙稿をものしたが、ご意見賜われば幸いである」というように、自分の素姓をちゃんと明らかにした上で、けんか腰にならず、謙譲して礼を尽くすことが大切です。
 第二に、論文を送るのは手紙をつけて郵送するのがベストです。中には事前に連絡もなしで突然訪ねてくる人もいますが、先にも述べたとおり大学教員は多忙です。授業や会議で不在かもしれませんし、いても授業の準備に忙殺されているかも知れません。アポなし訪問は迷惑なものですからやめましょう。以前に私の研究室をいきなり訪ねてきて、「父の自費出版した本を、ぜひ見てわかる方に買っていただきたい」と言って、本を売りつけようとした人がいました。信じられないでしょうが本当の話です。しかしこれは言うまでもなく非常識極まりない行為です。プロの学者が新しい本や論文を発表したら、ぜひとも読んでほしい人には無料で贈呈し、意見や批評を仰ぎます。タダで指導を請おうというのに「金を出して買ってくれ」などと言うのはどう考えても無礼なことですし、本当にすぐれた本なら、押し売りなどしなくても買ってくれる人はいるものです。
 第三に、もし誰からも何の返事もなかったら、「研究ごっこ」と認定されたと思ってあきらめることです。多少なりとも見るべきものがあれば、一人くらいは何らかの返事をしてくる人がいるはずです。それすらないのは「箸にも棒にもかからないから返事をする値打ちもない」という意味だと思った方がいいでしょう。そこでアカデミズム罵倒に走ったりすれば、正真正銘のトンデモ「研究家」の仲間入りです。自分自身を謙虚に反省する姿勢も、研究には欠かせないのです。私自身も権威ある雑誌に論文を投稿して、掲載を拒否された経験があります。しかしそれは私の論文がやっつけ仕事で書いた粗雑なものだったからであって、査読者の頭が固いからでも、学会の体質が古いからでもありません。今度は質のいい論文を丁寧に書けばいいだけのことです。

■学問に王道なし

 アマチュア研究家のとるべき道を提案しましたが、一つ重要なことは、
 この通りにしたとしても、認められる人はごく一握りである。
ということです。この提案はあくまで「トンデモへの道に転落しないための方策」であって、「こうすれば必ず有名になれる」という王道ではありません。学問に王道はありません。東大や京大で大学院に進学した人でも、研究者になれずに消えてしまう人がたくさんいるのです。それほど厳しい学問の世界で頭角を現すのは、プロもアマチュアも問わず並大抵なことではないということを強調しておきたいと思います。

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