辻まこと1)『岳人の言葉』2)

 

社会的生きものである私たちは、あっちに気をつかい、こっちに気をつかい、それだけで疲れてしまうときがないだろうか。そんなときは2月の山の上へ行くに限る、というのが辻まことの意見だ。実際に山に出かけるのが無理な人も想像だけはしてみよう。2月の山の上で世間体などにしばられていたら遭難するのがおちであろう。

 

快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持ちだ。

汚れたマスクに化粧をしているような世間で、自由な自分が不自由に闘っている不快感を自覚するには、この酷烈な二月の山の上ほど信頼できる場所はない。  (『続・辻まことの世界』264ページ)

 

 山登りをしない筆者(= Wunderkammer管理人)に辻まことを薦める資格があるのかどうか。しかし、辻まことを登山愛好家だけのものにしておくのは惜しいと思う。平らな場所を歩き回るのは好きなので、次の言葉の前半は実感として理解できる。だから、少なくとも半分くらいは資格はあるのかもしれない。

 

歩く人間の思考は、書斎の思考に比べるとずっと現実の光に影響される。不断に外光の変化があり、それが歩行者の頭や胸に絶えず“自分は世界の一部なのだ”という意識を植える。ドストエフスキーの地下生活者的思考――牢獄に閉ざされたものの暗い「世界は私だ」式観念、あるいは観念の抽象的図形から生じる哲学や、ユダヤ的復讐のファンタジーに閉ざされっ放しになることは滅多にない。

歩く人間のうち、山へ登る人間はさらに単純な水平的比例の思考から容易に飛躍できる生理をもっている点で、本来軽々としている。軽いということは薄っぺらだということでは決してない。ダビデはゴリヤテよりも軽薄ではないという意味でだ。  (同、271ページ)

 

 外に出て太陽にあたろう! 人間はきっとそうできているのだ。さもないと、頭の中で脳みそが腐敗し始める。世間の掟にしばられたあげくに、へんな眼つきで外をうかがう、それがいかに人間本来の自由さを失った姿であるか、私たちは気づかなければいけない。

 

自然には無限に人の知識を吸収する力があり、人は簡単にちっぽけな一身だけの問題を放棄してしまうことができる。自分を抜け出して一本の樹に同調し、山頂に光る残雪と化し、あるいは谷間に漂う霧にとける……というような自由が一体どんなことに役立つのか……と、山を知らない人は質問するかも知れない。それが何の役に立つのかは、私にも解らない。おそらく何の役にも立たないのかも知れない。しかし、それは人に健康な精神を与えるだろう。自分の穴からいつものぞき見するような、へんな眼つきで世界を眺めるようなことはあるまい。  (同、272ページ)

 

 部屋の片付けを始めるがはかどらない。よくあることだ。自分もまたゴミの権利でこの世にいるのかもしれない、なんて思いたくないが、そんな可能性も私たちは念頭に置いておいた方がよいのだろう。

 

ゴミは結局、半分くらいまたゴミの権利を獲得し、本人も部屋も大した整理とはならず旧態依然という、しまらない結果になってしまう。何の未練かわからぬところが未練の厄介なところだが、もし本腰を入れて整理するとなれば、最後には自分も破いて捨てねばならぬハメになるかもしれないから、やっぱりいい加減にしておくのが良識というものだろう。  (同、290ページ)

 

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1) つじ・まこと (1913-1975)、画家、随筆家。山に関する画文を多数発表した。辻潤と伊藤野枝を両親として東京に生まれる。関東大震災のときに母、伊藤野枝は大杉栄、甥の橘宗一少年とともに甘粕憲兵大尉に虐殺されたが、この宗一少年が長い間辻まことだと思われていた。

2) このタイトルは、『続・辻まことの世界』(みすず書房、1978年初版)の編者、矢内原伊作がつけたもの。辻まことは1971年から死の直前まで、登山愛好家のための月刊誌『岳人』(がくじん)の表紙絵を描き、それにあわせて「表紙の言葉」を連載した。「表紙の言葉」は絵の説明ではなく、文だけでも読める随想となっている。上記の『続・辻まことの世界』の他、全5巻の『辻まこと全集』(池内紀編、みすず書房、1999-2004年刊)の第2巻(2000年初版)にも収められている。また、5篇だけではあるが、『山の風の中へ』(白日社、1981年初版)にも、絵とともに収録されている。


『辻まことの世界』 『続・辻まことの世界』表紙 『辻まこと全集』全5巻

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