中島義道1)『英語コンプレックス 脱出』2)

 

 

 まず、目次から各章と節のタイトルを紹介しておこう。

第一章 英語コンプレックスとは何か

 1その症状/2その背景/3その克服

第二章 英語コンプレックス状況の変化

1欧米崇拝の希薄化/2「卑屈な」日本人論の減少/3豊かな国の若者

第三章 私の英語コンプレックスの変化

1私は英語ができた/2私は英語ができなかった/3私は英語ができる/4私は英語ができない

第四章 英語コンプレックスの自然治癒

 

 「コンプレックス」と「英語」の両方ともが、この本のテーマである。一見、「英語」の方に重点があるように感じられるが、「コンプレックス」の方に注目して読んでも興味深いだろう。本書でも、『ウィーン愛憎』(1990年)以来の私小説を思わせる著者のスタイル――「大人」なら虚栄心から口にしないような事柄まで率直に叙述する――は健在で、著者の英語にまつわる体験の数々がまさに「赤裸々に」語られる。

 

第一章は1993年に発表した文章をほぼそのままの形で再録したもので、第二章以下の執筆との間には十余年のへだたりがある。この間に、日本人の英語、ひいては欧米文化に対する感覚はかなり変化したようだ。この十年余の間にはいったい何があったのだろうか。一般的には、バブル経済が崩壊して「失われた十年」などと呼ばれる時期である。

 

 著者を典型的日本人と見なすとしたらたいていの人は納得しないだろうが、本書で綴られている、英語に対する感覚とその変化には多くの人が共感すると思う。筆者(Wunderkammer管理人)もその一人である。第一章を読みながら、自分が初めてドイツに滞在したとき(1980年)の、あこがれ劣等感がない交ぜになった気持ちを思い出した。3) 第二章では、筆者も最近の若者たちの欧米観が近年とみに変化してきたように感じていたので、4)その印象と重なった。

 

 明治の開国以来、日本は欧米を手本として、追いつけ追い越せの姿勢でやってきたのである。欧米は常にであった。「鬼畜米英」などと言った時代もあるものの、敗戦後またしきり直しがされ、欧米は再び手本となった。やっと今、この長年のやみくもな欧米崇拝(そして、それと対をなすアジア蔑視)の呪縛から、私たちは解放されつつあるのかもしれない。これはしかし、反動的ナショナリズムなどとは縁の薄いもので、むしろ『地球のはぐれ方』(Wunderkammer図書室第4回掲載)が語る、現代日本社会の「ゆるさ」志向と通じるところがあるように思われる。「追いつけ追い越せ」態勢のときは、いっぱいに入っていた肩の力が、もう入らないのである。そうなったとき、コンプレックスもどこやらに姿を消している。

 

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1) なかじま・よしみち。1946年生まれ。

2) 200410月、NTT出版刊。

3) ドイツ滞在中の1つの光景があざやかに思い出された。ホームステイ先のバスルームで、床に落ちた自分の抜け毛を目にしたときのことである。そのいかにも黒い直毛が、ヨーロッパ人の金や茶の柔らかい毛に比べ、何とも汚らしいもののように感じられたのだった。

4) 筆者は勤務先でドイツ語の授業を担当しているが、受講者が敬意どころかあまり関心ももっていない文化圏の言語を教えるのは、なかなか難しいと感じることがある。ドイツ語の場合は、本書で述べられている英語のように、背景の文化とは切り離されて、人類の意思疎通の単なるツールになる可能性は――少なくとも現在のところ――ない。





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