「ある娼婦の生涯」第六図についての解説から



【第六図では、主人公は棺の中に横たわっています。牧師や同業者が集まって葬儀がおこなわれています。一見ふつうの葬式のように見えますが、リヒテンベルクは細部に目をこらすよう促します】

ここに集まっている一団をただざっと、あるいは遠くからのみ眺めるならば、これはすでにおなじみの光景だと思ってしまい、悲しくはあるが荘厳なものを想像するだろう。「やすらかに」と、やさしくのぞきこまれている棺、たくさんの黒紗のヴェール、牧師や寺男とおぼしき男たち、壁には葬儀の紋章、悲しみに沈む子供、ローズマリー、涙、白いハンカチ、人々は霊柩車を待っている。ここに邪悪な何かを予想する人が、いったいいるだろうか。だが目を近づけて細部に目をこらすなら、前代未聞の光景を見出すだろう。すべてが一変し、跡形もなく消えてしまうものもある。悲しみなど縁のない喪のヴェールであり、涙のないすすり泣きなのだ。牧師らしいところはどこにもなく、寺男についてもしかり。紋章は誹謗のしるしであるし、棺さえも火酒の給仕台にされている。忌まわしいことである。いったい何が起きているのか? この点について読者諸賢は、これから話を聞くことになる。ご自分でも想像をめぐらせていただきたい。

 

【この場にはいったい何名いるのでしょうか。リヒテンベルクの数え方だと十五名になります。うち十二名はペアになっていると解説します】

一団は、生者が十三名、死者が一名、両者の中間の鏡像が一名、というわけで合計十五名から成る。うち三名は一人ずつ(シングル)で、残りの十二名は二人一組(ペア)になっている。生者同士のペア二組とシングル三名で七名、そこに生者と死者のペアを加えて九名、生気にあふれたシャレ者とよく似た婦人のペアが二組、これで十三名、最後に婦人とその鏡像(本人と同じだけの面積を占めている)で、合計十五名となる。この一人一人について、ほんの一言だけになる場合もあろうが、何がしか述べていくつもりである。それでは向かって右の端から始めよう。

 

【シングルの人物について説明した後、ペアになっている人物たちの解説が始まります。まずは、画面手前右側の男女のペアについてです】

シングルの部に属する、この南米フエゴ島民を思わせる顔の隣に場所を占めているのは、最初のペアで、こちらはヨーロッパはロンドン文化圏出身である。葬儀屋氏が、喪服用の手袋をはめようとしている尼僧を手伝ってやりながら、その好機を生かして、容易に中身の想像がつく請願書を手渡そうとしている。きわめて礼儀正しく、かつうやうやしくも誠実な物腰なので、聞き入れられないはずはない。実はすでに慈悲深くも聞き入れてもらったらしいことは請願者の目を見るとわかるのだが、聞き入れたしるしの方は隠されている。男は手袋をはめるのを手伝う行為そのもので請願書の代わりとしているらしいので、そのため回答の方も目に見えないままにならざるを得ないのだろう。両者の表情のちがいは見事である。葬儀屋の方は、その目と口からうかがわれる目論見しか頭になく、徹底的にそれに集中している。まさにそれしかない――少なくともこの時点では。一方、女の目つきには多面的な企みがうかがわれる。いかにその目がどんよりしているように見えても、そうなったのは一団にふるまわれた「導きの精(スピリット)」のせいだけではない。これは戦略なのだ。つかまえた哀れな悪魔の盲目ぶりに対して、勝ち誇ったように微笑しているのが明らかに見て取れる。その間抜けの役回りになりさえしなければ誰でも気づくだろう。ドルアリーレインの女たちは我を忘れない。彼女らの身のこなしはどんな小さなものでも、彼女らが公然と攻撃をしかけるハートだけでなく、秘密裏には少なくともハンカチくらいはものにする。従って魔女のごとく右腕の上の方で、ハートがもう手中に落ちたのを知るや、すぐさま左手で盗みにとりかかるのだ。これは葬儀屋氏にとっていわゆる「小さな思い出」となろう。「大きな思い出」の方は、ゆくゆく気づくことになろう。

 

【この後、手の指を検査しているような女の二人組、女とその鏡像のペアについての解説が続きますが、ここでは割愛します】

 

【画面手前左側の男女については殊に詳細な解説がなされます。まずは女の方から説明が始まります】

左端に位置を占めるペアについては、言うべきことは少なからずあるものの、口をつぐむべきことも多々ある。ホーガースの名誉はわれわれに前者を要求し、われわれが読者諸賢に対して負うべき配慮は後者を求める。だがこのペアの様子も理解する必要があるし、またそうされねばなるまい。ただ、常に「悪魔(Teufel)」と書くことはせず、その代わりに「ウリアン氏」とか、あるいは単に「T」と書いたりすることをお許し願いたい。

男も女もこれは文句なしに肖像画である。女はメリー・アダムスという悪名高い人物で、若い頃に数えきれない放埒な行いをはたらいたあげく、ついに三十歳の時に盗みの咎で、新世界へではなく、したがって情状酌量を受けるどころか、あの世へと送られた。一七三七年九月三〇日に縛り首にされたのである。肖像画が残っており、それらの一つを元にしてこの顔が描かれたのだろう。このホーガースの版画は一七三四年にすでに発行されているので、彼女の死の三年前ということになる。従ってこのことから少なくとも、彼女が自分の知名度を最後の犯罪と死に方だけのせいと考える必要のないことが明らかになろう。この絵に描かれた顔からもうかがわれるように肉体的な魅力のためだったかもしれない。だがイギリス人の美しい肌と歯は見られない。それに、いきいきとした美しい顔なら世界に向けて開かれているように見えるものだが、この女の場合はそれがおのれのうちに戻ってしまっているように見える。隣の男は聖職者ではない。そのような考えを決してもたぬよう読者諸賢に切にお願いする。もし聖職者だなどと考えると必然的に画家を悪く思うことにならざるを得ず、その結果、この作品が与えるはずの全体の印象が失われかねない。牧師の服を着ているだけなのだ。この男の中には、ホーガースが正当にも不滅の悪名を与えたような、悪党が潜んでいる。チャータリスの同類である。ホーガースがここで牧師服を用いなかったら、もっとうまく表現できたのではないかと、問う人がいるかもしれない。このような警告には強い根拠があるとわれわれも思う。それどころか非常な説得力を感じる。確かにその方がよかったのだろう。だが一旦描かれてしまった以上は画家の言い分も聞く必要がある。われわれはそれを真に楽しんで受け入れた。人々もきっと画家を無罪にするだろう。

 

【次いで男の方の説明です。この男の手が今どこに置かれているのか、リヒテンベルクは口ごもります】

ハートのエースの一団の中に、もう一枚の黒のエース、すなわちクラブのエースたる葬儀屋氏と共に混じった、スペードのエースのようなこの悪人は「乞食坊主(Couple-Beggar)」の名であまりに有名だったので、ホーガース版画の注釈者たちはこの男の本名を記すのを忘れてしまった。これだけでもうこの分野での大物ぶりを示すエピソードである。この男は小銭をもらって婚礼を挙げる稼業のかたわら、みずからは規則正しく毎週二三度、排水溝と婚姻を結んだという。ただし、ヴェネツィア共和国の総督とアドリア海との象徴的な婚姻とは異なったやり方で。水の中に指輪を投げ入れる代わりに、この男の場合は、その晩身につけていたものすべて、すなわち全身身ぐるみ水中に入るのが常だった。神学者などとはとうてい言えなかった。ただの儀式屋で、そのインチキ稼業の分野でも結婚式と葬式しか扱わなかった――何がしかの料金を取って。いわゆる聖なる手では何も求めようとしなかったが、その分しばしばいろいろなものを掴んだ。一方、俗なる手の方は儀式の謝礼を得られそうな機会には、底あり底なしどちらの財布に対しても、果てしなく要求し続けた。これはよく知られていた。ホーガースがこのような事をこの版画で暗示するつもりがあったのかどうかを、今決めるのはむずかしい。いわゆる聖なる手、左手で、彼は「葬式火酒」のグラスを不器用に支えていて、ハンカチにしみをつけている。俗なる手の方はどこに差し込まれているのか、この点についてはわれわれの知る限り、今まで誰もはっきりとはさせられなかった。隣席のご婦人が注意深く支えている「乞食坊主」の帽子の中にその手を探してみても、そこには見つからなかった。そこでわれわれはこの「難所」を喜んで放棄することにして、注釈者の流儀に従い、心からホッとして、もっと容易な部分へ、つまり鼻かけ女に進みたい。

 

【画面中央奥のほろ酔い加減の女のペアが説明された後、中央に描かれた死者と生者のペアに解説は進みます】

六番目にして最後のペア、生者が死者を見つめているという二人組をホーガースは絵の中心に置いたが、もちろん理由あってのことである。この二人にとりわけ視線を集めたいのである。このペアは、一団が作っている半円の頂上に位置し、そこで両翼が合流しているが、それだけでなく、画家がここで引こうとしている教訓の線を一点に集めるのも、このペアの役割なのである。というわけでこの娘はホーガースの描いた美人の一人でもある。このことは覚えておいた方がいい。さもないとそれを見て取れないということになるかもしれない。だがこの娘の容姿はそれほどひどいということもない。少なくとも若さゆえの美しさはある。そしてまさにこの点に教訓は向けられている。その教訓を示すには、棺から聞こえてくる言葉によるのがもっとも容易であろう。

「私もこの間まであなたと同じだった。今歩んでいる道から抜けるのよ。できないと言うなら考えてみて。あなたもじきに今の私のようになるのだと」

愚かな娘がこの言葉を聞いたかどうか、表情からはわからない。もし聞いたとしても、霊柩車が到着するまでには忘れてしまうだろう。この点は確かだという気がする。

 

【まだ幼いモリーの遺児が喪主をつとめています。画面中央、棺台の手前にその姿が見えます。この子についても詳しく解説がほどこされていますが、ここでは割愛します】

 

【中央右よりの小さなテーブルに載せられた手袋は少々不思議な様子をしています。リヒテンベルクは次のように述べています】

ローズマリーを載せた皿、手袋とその窮屈すぎる指の部分を広げるための道具をいっしょに置いた小さなテーブルにはわかりにくいところはないと思う。だがひょっとすると置かれた手袋が示している形は見逃せないかもしれない。手袋の両手は激昂のあまり、打ち合わせるために一旦離れたかの様子である。そしてこれを目にして、この場に集まって世俗の事柄にかまけている十三組の手のうち、少なくとも十組の血と肉でできた手が恥じいっているように見える。

 


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