「ある娼婦の生涯」第四図についての解説から


 

【第四図の解説は、発酵についての化学的な説明で始まります】

知ってのとおり、化学によれば発酵には三つの段階がある。すなわち酒精発酵、酢酸発酵、そして腐敗である。だがこの三つの段階は化学とはかけ離れた領域にも当てはまるだろう。どんな種類の有機物であっても、それが、とにかく量的にもエネルギー的にもさまざまであるにせよ、若干量の揮発性の何かよくわからないもの――生命力か生気か、何かそういったもの――と結びつくなら、そして絶えず変化する自然環境の中に置かれるならば、類似の現象はいくらでも発生する。例えば人間の一生や国家の盛衰においても、全体として、あるいは部分的に、この三段階が見られる。人生における第一の発酵段階は、ああ、それはどんなに人の心を歓喜させるものか! この時期には、人はあらゆる物事に感動し魅惑され、しかもそれが長持ちする! それからしばらく経つともうそうはいかない。ちょうどこの前の戦争の時や、年代記の編者が指摘するその他のいくつかの時代のように。もはやおいしい味はしない。飲んだ人は渋い顔をして、首を激しく振って途中で杯を置いてしまう。どうしてそうなってしまったのか、人々には納得がいかない。こんなことはまさにあってはならぬことだ、いまいましい――こうして酸っぱい顔の気難し屋が出現する。発酵はさらに進んでいく。年を取るにつれ人は用心深くなる。用心深くなって疑い深くなり、疑り深さは人をさらに老けさせる。額の上に横線(ダッシュ)を刻んで計算し、夕食と朝食の間に、我が身の脂肪でこしらえた贅沢な夜食を食べてしまうこともまれではない。歯が一本また一本、巻き毛が一つまた一つ、そして力も次第に失われていく。こうして歯も髪も力もなくなって、シェイクスピアの言うように「何もなくなって」、発酵は最終段階、腐敗へと至る。――ああ、何と臭うことか! おがくずを詰めた木箱の中に入れてしまえ。このひどいものを墓地へ運んで、二度と人目に触れないようにしろ! これが人間の一生である。――国家や都市の場合は様子がちがうだろうか? 往時の栄華をしのばせるのは、おびただしい腐肉をおおう墓石の群れであり、冬が訪れるごとに小さくなっていく腐った切り株のまわりの貧弱な新芽であろう。

 

【モリーは逮捕され、感化院で強制労働をさせられています。でも、なぜか一人だけ盛装をしています。その理由をリヒテンベルクは考えてみます。ついでに、一般にご婦人の身支度には時間がかかることにも言及します】

 モリーは一団の右翼に測兵として、垂れ付き頭巾をかぶって立っているが、まさにたいへんに飾り立てた格好をしている。彼女は夜の蝶をしている最中を捕獲され、このけばけばしいコレクションに加えられたのかもしれない。少なくともこのいでたちは、夜ごと彼女が街灯の周囲を飛び回るときの客寄せ装置であろう。彼女の服装からはもっといろいろなことがわかる。誰しもが、どうしてモリーはこんな盛装をしてここへ連れて来られたのか、といぶかしく思うことだろう。なぜならベッドから引き出されて、こんな風に着飾るための時間を与えられたはずがないからである。というのも、ごく少な目に見積もっても、帽子はどれにしようかしらと四五回は試すだろうし、服についても全部をそれぞれ二度は着てみるだろうから、それだけでも二時間から二時間半は優にかかってしまうからだ。このような取り引きに応じていたら、夜の蝶の捕獲人たちは靴代も稼げない。それに、ポンス鉢に立てかけられていたあのみじめな鏡の破片を思い出していただきたい。あれではこの艶姿の五十分の一も映し出せないだろう。全身を見るためには掌の幅にも満たないくらい少しずつ順ぐりに映して、よけいな点や足りない点を確認していかなければならない。多くのご婦人が舞踏会のための身支度を整えるのに優に三時間は要するが、それは四本の手と、全身が一目で眺められる鏡があっての話である。モリーの場合はそうはいかず、だからといってそれほどの忍耐を捕吏に求めるのは無理であるし、もし求めたところで、かなえられる見込みはほとんどない。なぜなら前図「その三」で一人の捕吏が手にしているのが見えた道具は、この「その四」で、われわれが醸造職人と先ほど呼んだ男の手にあるのと同じものである。これが目にとまる場所で、寛容のしるしであったためしはない。この道具は「牛の陰茎製鞭」という名称だったはずだ。従って謎を解く道は二つしかないと私は思う。一つは、「その三」で描かれたあの最初の拘禁とこれとはちがうというもの。あの時は個人的に懲戒されるだけで終わり、その効果はなかった。それが本当なら残念至極ではあるが、そこで再度のおとがめに至った。もう一つの可能性は(こちらの方がおそらく正当な想像であろう)、モリーはやはりあの場から連行されてきたというもので、その時は街路の風と物見高い「自然科学者たち」の視線を避けるのに必要最小限なものだけを身にまとい、衣裳は後で届けてもらったというものである。

 

【盛装したモリーの姿から、イギリスの裁判について語られます】

さて、われわれも承知のとおり、イギリスでは事情聴取を受けずに刑を宣告されることはない。そして事情聴取の折には、聞かれるばかりでなく見られもするのである。これは容姿にいくらか自信のある哀れな罪人にとってはまたとないチャンスである。彼女らは、正面の「正義の剣」の下に座っている尊敬すべき男性が事件を厳格に清廉潔白に裁くであろうことは承知している。けれども同時に次のことも知っているのである。周りをぐるりと囲んでいる法律の素人の中には、彼女の顔つき、ほっそりしたウェスト、髪、そして全身がきちんとしているのを見れば、事件をそれほど厳しく考えず、一度悪いことをして捕まったからといってこんなにきれいな娘をすぐさま非難したり醜悪だと断固として決めつけたりはしない、甘い裁き手になる者もいるということも。このようなわけでイギリスでは裁判官の前に引き出された女が感じのよい表情を浮かべ、うわべだけでもつつましやかな態度をとり、衣服については実際にそのようなものを着用したり、あるいは何らかの手段をつかってそのように見せかけるなら、きちんとした人間という印象を与えられる場合も多々あることに納得がいくかもしれない。一七七五年にルッド夫人とかいう女のせいで、双子のペリュー兄弟なる彼女の知り合いの男たちが絞首台送りになったが、女の方は周囲のこのような親切な助力のおかげで縛り首を免れた。彼女の名前は当時のあらゆる雑誌の中できっと生き続けているはずである――もしそれらの雑誌がまだ存在すればの話ではあるが。そこには彼女の身につけていた品々がもれなく描写されている。どんなリボンをつけていたか、飾り紐はどんなものだったのか。髪飾りはつつましやかさそのものがにじむものと見られ、殊に詳細に分析され、ペリュー兄弟のような男をものにしようという気のありそうな者たちのために描写されているようなものだった。コーディーリアやデスデモーナに扮したシドンズ(*)のような名女優でさえ、これ以上の栄誉を受けることはできなかったろう。やりすぎである。こういう訳だからこのモリーのように、審問の日に、わずかばかりの自分の持ち物をかき集める娘たちを誰がとがめられようか。むろん陪審員たちはこのようなことで目を眩惑されてはいけないのだが、しかし罪を犯した哀れな娘たちの方は、こんなことで救われるのがそれでも可能だと信じていけないことはないのである。おとがめ自体はこれによってかわせなくても、あちこちの人々の中に、彼女の傷に後から油を注いでくれるサマリア人を目覚めさせることができるかもしれない。というのもロンドンにはひどく変わったタイプのサマリア人がおり、その中には、満艦飾のこのような娘たちを目にすると、踊るジュリー・ポトツキ(**)の優美な姿が世の情緒豊かな男に与えるのと同じくらいの感銘を受ける者がいるのである。

*(原注)今世紀最高の女優の一人。その芸術のみならず人格もまた立派で非の打ちどころがなく、尊敬に値し、また実際に敬われた。

**(原注)この婦人の踊るさまを描写する典型的な記述が次の本に見られる。ヨアヒム・クリストフ・フリードリヒ・シュルツ『あるリトアニア人のリガからワルシャワ他への旅』第二巻、一九七頁。

 

【モリーの横に立つ男は獄吏です。厳しい表情を彼女に向けています。モリーの後ろには獄吏の妻がいます。こちらもおそろしい顔つきをしています】

 この男のような連中は、当局から支払いを受けてとにかく浮かべていなければならない表情の他に、さらに半ダースもの別の表情もそろえていて、わずかの報酬を支払えば人々はそれを彼から買えるのである。それらは概して鞭抜きで提供され、そのような表情のうちのいくつかは、私が聞き出したところによれば、片方の耳から友好的な線を描いて鼻の下を横切り、もう一方の耳へと抜けていくという。われわれがここで目にしているのは、単に並のコースの前菜なのである。

われらが女主人公のすぐ後ろには、この獄吏の妻が立ち、じっと耐えている娘の頭に向かって、精神面にのみ作用する別の種類の懲らしめの刀――すなわち罵詈雑言――を振り回している。もし悪魔がこの世の彼のあやつり人形のどれか一体の運命をもっとあやふやにすべく手を加えようとするなら、そのときの悪魔の指使いと風貌は、この女がここでレースや飾りリボン、あるいはハンカチをつまんでいるのとそっくりであろう。この女の顔つき以上に悪魔的な人相を想像することができようか。けれども、女の浮かべている表情は、このような顔を装おう最良のスタイル、すなわちサテュロス的である。酔って怒っていたならこのスタイルはさらに徹底していただろうが、ただしそれでもカリカチュアにはならなかったろう。この手のものを見たことがない者は、いまだ世の中を何も見ていないに等しい。

 

【強制労働をさせられている者たちが振りあげている麻打ちの槌のさまざまな位置を見て、リヒテンベルクは音階を連想します】

それでは列を順番にたどっていこう。何という槌の動きであろうか! 何と音楽的であることか! ちょうど七台が演奏中で、まさにド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シといった様子が目をひく。右手前景にいる二人は目下演奏に加わっていないので、数には入れない。楽器が調整中なのか、それともこの二人は本日分の演奏を終了させたのか(というのは槌が休止しているばかりでなく、叩き台の上に麻もない)、私にはどちらとも決めがたい。さらにはこの二人のいる場所と、他との間には何か小さな溝のようなものが走っているようにも見えるが、そうだとするとこんな場所にも一等とか二等というような等級づけがあることになる。それともわれらのモリーは見せしめのために段の上に立たされて、さらし者にされながら働かされているのだろうか? 犬の体が半分しか見えない点も、段の存在を思わせる。それに目印のない等級分けなどありえないが、この特別席にもそれでやはり地面に輪が打ち込まれていたり、動きを阻止したり緩慢にしたりする「遅延の叩き台」が用意されているのである。だが、音階と木琴に話を戻すことにしよう。

 

【モリーが「ド」で、次いで「レ」にあたる隣の男性が説明されます】

 私はこの男をつまり、ロンドンで毎年のように司法の手を少なからずわずらわせている悪評の高い人々、英語でswindler(ペテン師)といっている者たちの一人だと思う。swindler というのは(ついでに註釈を加えるならば)、あの偉大なジョンソン博士がそのやはり偉大な辞書に載せるのを忘れてしまった単語の一つなのだが、つまりは細心に練り上げた策略をもって、さらにはたいてい身分や資産のある人物のように見せかけて、人々から財産を奪おうとする詐欺師のことである。このような仕事は、時に「仮の女房」を必要とする。単に一種の添え物の場合もあるが、なくてはならぬ「おとりの鳥」の役を務めることもある。女がペチャクチャさえずり、男が威厳を担当する。私はこの絵の「ド」と「レ」がその種の二人組なのではないかと疑っている。二人がすぐ隣同士にいること、二人ともひどく豪華かつ同様の趣味で身を飾っていること、これらがこの推測を少なからず裏付けてくれるだろう。詐欺商売で「レ」の方が「ド」を必要としたのか、あるいはその逆なのかは判断しないでおこう。だがことによるとこの両者の負債関係は、破れたトランプ札のとおり三対五の比率で、従って対等の関係からは全体の八分の一ずつ偏っているのかもしれない。彼らはおそらく繰り返し手配されたあげくに、ついに豪華な馬車の中にいるところを逮捕され、短い審理の後、この施設に送り込まれたのであろう。われらの女主人公に対するここでの著しく特別な仕打ちは、このような再度の拘留のせいなのである。こういうケースでは至るところでなぶりものにされるのが常である。モリーがここに連れてこられた経緯について、先に述べた説よりも、こちらの説の方が適当だと思われるなら、こちらを採用していただいてかまわない。どちらにするかは単に趣味の問題である。壁に掛かっているモール付きの帽子がこの「レ」のものであるについては、ほとんど説明を要しないだろう。

 

【続いての「ミ」はまだいたいけな少女です】

「レ」に続く「ミ」はまだほんの子供で、この絵の中のあわれむべき存在である。ティーンエージャー(*)になるかならぬかでもうこんな施設に入れられ、本人にはよく理解できない罪の償いをさせられている。プードル犬が曲芸を仕込まれるように、ただ単に作業のやり方だけを覚えさせられているのである。貞潔の住処――私はドイツの小都市のことを言っているのだが――からロンドンにやってきた人は、日が暮れると、バレエの女羊飼いの衣裳をつけた十二三歳の少女たちが、体をつかまえられて、芝居がかったやさしさで抱きすくめられているのを目にして、胸がはりさける思いがするはずだ。想像を絶することである。少女たちは子供らしいかわいい声で、本人は一言もわかっているはずのない事柄について暗記させられたらしいことをペラペラとしゃべる。だから人々はこのような少女たちを、その台詞がことごとくチャータリスか悪魔でなければ作成できないような教義問答からのものでなかったなら、堅信礼を受けるところなのだと思っただろう。罰あたりなことである(**)。この少女はなかなかよい顔立ちをしており、懸命に麻打ちをする様子から、どんな指導にも従う覚悟であることがうかがわれる。公正なる神よ! この少女に感化院がふさわしいというなら、この子の純潔を深く考えもせずに、そして彼女の青春をまだ花も開かないうちに台無しにするようなことを教えた奴等にはどんな罰が相応するのだろうか?

*(原注)  第一図の注(*)を参照。

**(原注)  この点について触れたからには、ロンドンではこのようにして少女が破滅してしまわないように全力をつくしていることも記しておくのが義務であろう。こんなことができるのは、状況の悪い時でもみずからの自由を自負できる民族だけである。彼の地には、われらの王妃でもある人が提案し保護し援助している「マグダラ救貧院」がある。この施設には貧しさゆえにこの種の商売に足を踏み入れてしまったものの、それを後悔している娘たちが収容され、あらためて良い娘に教育し直される。ここで生活することで、深く痛ましく傷つけられた人間性ならびに高貴な美徳が、人間の尊厳を取り戻すべく、みずからを人間性の最高の輝きにおいて示そうとするきっかけが与えられるのである。しかしながら、当の娘たちの多くがいかにこの種の施設を利用しようとしないかは、次の話からも明らかであろう。ある日のこと、一人のこのような娘が、親戚とおぼしき親切な人によって無理矢理連れられてきた。娘は馬車の中で哀れっぽい声を上げていた。通りすがりの人たちは娘が誘拐されかかっているのかと思い、馬車を停めて事情をたずねた。すると娘はこう叫んだのである。「この人たちは私を『改悛した処女救貧院』に連れて行こうとするのです。私はそのどちらでもないというのに」

 

【この後、「ファ」から「シ」まで一人ずつ説明が加えられますが、ここでは割愛します】

 

【リヒテンベルクの解説は実に詳細です。ドアの落書きも見逃しません】

右手の一番奥には、窓の鎧戸か戸棚の扉のようなものがあるが、そこに煙草を吸ったまま絞首台につるされている人の姿が白墨で描かれている。営倉によく見られるような落書きである。絞首台は実物そっくりだ。ここにいる連中にはなじみのものであろう。また貴族にとっても街を離れるならば、それが別荘になることもまれではない。つるされている人間が誰なのかは暗号でのみ記されている。上方にS.J.G.(Sir John Gonson) と頭文字がある。われわれが第三図で述べたあの立派な男の名前である。ごろつきの一人が白墨を使ってやったちょっとしたいたずらなのだろう。同じことをあいくちを使ってするには、その男はおそらく臆病ないし真面目すぎたのだろう。パイプを口にくわえさせたのにはたいして意味はない。このようなことは銅版画に彫られるほどの立派な男なら皆がまんしなければならない。きわめて誠意のある人々の肖像画が、殊にそれらの人々が青少年教育にたずさわっていた場合には、まさに当の青少年によって、パイプや、あるいは髪粉をかけたかつら以上に横に張り出した真っ黒な口髭を描き加えられて、敬意を表されているのがしばしば見られる。これはよくない思いつきである。しかしながら、何かといえば自分の肖像を教科書の表紙に刷らせ、それでおのれのみならず教科書にも箔をつけようとするのも、それほどましな思いつきではない。この落書きの人物のようなものが銅版にこれほど斬新に彫られているのは珍しい。もしこれが千五百年も火山灰の下に埋もれていたものだったなら、われわれはこれについて一言も費やさなかったことだろう。

 

【最後に、図のなかほどにいる犬が説明されます】

これで残るは犬だけとなった。ホーガースのごとき測りがたい狡猾な人間を相手にする場合には、犬も単純なモチーフではない。この犬は単に自分の意志でここに座っているのだろうか? 人間には真似のできない忠実さ――主人に従って牢獄にまで来るような――の証なのだろうか? この種の倫理観は、われらの道徳先生にしてはいくぶん中身が薄い。それに現に、二等席で「エジプトの第二の災い」の隣にいる女はそれを実行している。ただしこの例には教訓の尻尾(見えないが)――すなわち、法外な忠実さを示せばそれなりの見返りが期待できる――がついている。これではまずい。だから私は、犬は群れを率いる美しい羊飼い夫妻に従う牧羊犬だろうとやはり考えるのだ。優美なこの二人組が「閨中説法」に従事する間、羊の群れの動きを見張り、守る役をつとめるのである。犬が学ばないことなどあろうか? 犬は明らかに主人の発する合図に耳をそばだてている。モリーをどなりつける声を犬は知っている。おそらくそれは犬に時おりかけられるのとまったく同じ文句なのだろう。犬は自分に向けられたのだと思っている。なんとなればここでは、鞭を振り回せば可能になることならば、あらゆることがどちらでもよく、意のままだからである。

 


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