「ある娼婦の生涯」第三図についての解説から



 

【主人公にとっての「銀の時代」は過ぎ去り、モリーはさらに転落していきます。第三図の解説は次のように始まります】

モリーは堕ちる――堕ちる! いよいよ速度を増して! これは、われらの画家が描いた彼女の六つの行程からなる旅のまだ三つ目の停車駅なのである。旅程は半ばにさしかかった。二つ目の停車駅からはうまい具合に曲がりくねってわきへとそれる「夏の散歩道」があった。むろんすべての馬車が通れるわけではない。しかしながらそのような小道を通って、首尾よく目的地に到着した女たちや、さらには奥方たちについて、語っているスキャンダラスな伝記がある!――スキャンダラスな伝記?――ああ、あのあっぱれでそれほど昔のものではない物語は、このような途中駅からあの終着駅にたどりついた「副王妃」たちのことを語っている。

だが、ここではすべてが失われてしまっている。娘は、博愛主義者のバーゼドーがかつてふざけて自分自身について単に比喩的に述べたことを、生まじめにやり遂げ、「公衆の妻」となった。この絵の彼女は、三流の小規模な情欲処理施設における主役である。何と堕ちたことか! Fuimus(栄光ハスデニ無シ)、どこもかしこも!

 

【リヒテンベルクは、この部屋の調度品を第二図のそれと比べて見ていくことで、主人公がいまや陥っている経済状態を説明しようとします。高価な家具は姿を消し、頑丈な作業台のようなものがいろいろな用途に使用されています】

なんという変わりようだろう! ここでもお茶が飲まれているが、どんなふうにだろうか? カップとティーポットがはっきりと目に入ってこなければ、そこは靴の修繕台だとうっかり思いかねないではないか? 華奢な脚のついたあの銀のテーブルは姿を消し、その代わりに、雄牛さえ支えられそうな脚のついた別の台がすえられた。この台が今ここで為しているのは、この台の唯一の職務ではおそらくなかろう。頑丈そうで、いくらかずんぐりした形からみて、たぶん時には肉をたたいたり、さらには洗濯桶を置く台としてや、また他に座るところのない疲れた客の腰かけとしても使われているにちがいない。

 

【かつてテーブルをひっくり返した主人公の足も、もうそんな元気はありません。小間使いやペットも、贅沢のできた妾時代とは変わってしまいました。食器でさえ満足にそろっていないのです】

 銀のテーブルをひっくり返した、まさにあの小さな足と膝が、しかしながらここにもあるが、今度はテーブルをひっくり返したりせず、それどころかむしろテーブルの枠組みで足を支えているようにさえ見える。銀製のやかんも姿を消し、粗末なブリキのジョッキに取って変わられ、同様にオナガザルはオナガネコに、それから小間使いと黒人の少年は、小間使いと黒人の少女とオナガザルのいずれの要素も兼ねそなえた雑種に変わった。小さなテーブルの上にあるのは、ただ一客の茶碗と受け皿、それにおそらく砂糖入れにしているらしい別の茶碗、小さなパンが一個、ナイフ、それからバター少々、それにはどこかの物書きが皿を用意した。つまりバターが載っている紙のことだが、それはロンドン主教で誠実な男であるあのギブソンが、当時、教区に宛てて善意を込めて書き送った牧師書簡(pastoral-letters)の一枚なのである。これらの書簡は、きちんと記された宛先は無視されて、正しく受取人に届くよりも前に、食料品屋の主人たちが一致協力して、それらの郵便料を納めて最終的な世話を引き受けていた、と言われている。

 

【図に描かれているものの中に何なのか判然としないものがあった場合、解説者はどうしたらよいのでしょうか。リヒテンベルクは、ベッドの壁のところにかかっているほうきのような物に頭を悩ませます。なぜか、視力の話が始まります】

哲人たちはとうの昔に、失明したら半分死んだも同然だと感じ、そして実際に自然もこの見解に同意しているように見えるが、これは哲人の見解について常に当てはまるとは限らないことである。でも私は、目が見えないこと以上に、いろいろな対策のある浮き世の不幸があるかどうか疑っている。もし太陽が出て来ないなら、まあよい、われわれは明かりをつけるだけのことだ。これは取るに足らぬことである。底翳(そこひ)が窓を閉めてしまったなら、これもよかろう、目医者がよろい戸をまた開けてくれる。人間が近視、すなわち自分の鼻以外のものが見えなくなったり、老眼になって教会の塔ははっきりと見えるのに目の前にある近くのものが見えなくなったなら、めがね屋で十二グロッシェンを払うだけですべては解決だ。このように、ロウソク職人、目医者、めがね屋の三者から成る大同盟の助けを借りて、人間はこれまで絶対的ならびに相対的な盲目に対して、防衛的にではあるが、たいへんに力強く闘ってきたので、この問題による干渉は、いまだそこここで生じてはいるものの、話題にする価値はほとんどない。さらには人間はもっと攻撃的な態度にも出、いつの日にか月にいる兄弟の目の中の塵を見てやろうという望みさえ抱いている。とんでもない視力ではないか? もう月を観察できる望遠鏡は完成したのではなかったか? だから厳密に計算すると、われわれは常に一秒半後には、月で新しい山ができたり、あるいはリスボンやメッシーナの町がその最後を迎えたりを知ることができるのではないか? だけれども、ああ、その他の五感のためにもめがねがあったらいいのに! だが「そこ」の状況はお粗末であるようだ。そこでは老人たちの目はいよいよ近くなり、遠くがしだいに見えなくなり、そしてじきに完全な盲目となってしまう。そんな場合、明かりをともしたり、底翳(そこひ)を除去したり、めがね玉を磨いたり誰ができるというのか! ああ、賢者の石があったなら! 私は、それなしではいかなる智恵もあり得ない、老齢のことを言っているのである。数えきれないほど試みられたが、いかなる成果があったか? まずは心が先頭にたってやる気満々で進み、肉体がその後ろにおずおずとついて、行列を開始する。そのうちに肉体が情けなく仕方なさそうに進むようになり、そのあとに心がのろのろと這って行く。そしてついには――行列はもはや途切れてしまう。こうして心と肉体、それに目とめがねも終わりとなる。――たいていの場合、惜しまれるのはめがねである。

しかし、われわれが話題にしていたのは、ベッドの壁のところの教育用ほうきについてだったはずだ。これは、めがねなのか――老人用の? 本当のことを言うと、私自身わからない。私にわかっているのは、もしめがねだとすれば、鼻の上にかける式のものではない、という点だけである。以上で、われらが画家の描いた難解な箇所について、私自身これ以上はわからないというところまで、従って誠実な解釈者ができ得る限りのことは解説したので、私はおのれの義務を果たしたと思う。しかしながらこの箇所で欠けてしまった弁舌については、別の箇所で、半分も多弁である必要がないようなところで十倍にもして埋め合わせをするつもりだと読者諸賢にお約束する。――これもまた誠実な解釈者のでき得る精一杯のことである。

 

【ベッドの天蓋の上にはかつら箱が置かれています。リヒテンベルクはこのかつらの持ち主について言及し、これに関連して追剥や辻強盗の序列についての説明を続けます】

天蓋の上には、まるでそこが所定の位置であるかのように、悪名高い辻強盗(street robber)ジェームズ・ドールトンのかつら箱(*)が置かれている。もしこれがまだ形見の品になっていないとしても、じきにそうなるはずだ。なぜなら、この男はちょうどこの頃縛り首になったからである。どんなに下の下までわれらの女主人公は堕ちてしまったことか! 辻強盗というのは三流の悪者で、悪者としての名誉にもまったく欠けている。彼らは、祖先をアレクサンダー大王にまでさかのぼれる追剥(highwaymen)の国においても、縛り首にされるだろう。この男と娘の名誉のために、われわれは次のように思いたい。この男がこそこそしたスリ(pick-pocket)ではなく、胸と胸とをつき合わせて、あるいは少なくともピストルかナイフか棍棒を使って、つまりもっと危険に身をさらすやり方で盗んでいたと。けれども徒歩(footpad)だったので騎士とはいえなかったと。馬は悪者さえも高め、貴族に列してしまう――イギリスでは。大地を踏みしめている盗賊は決まってどこかヤフーを思わせ、一方馬上の盗賊は決まってどこかフウィヌム(**)を思わせることに気づいてもらいたい。

*(原注)James Dalton his Wigg box(ジェームズ・ドールトン彼のかつら箱)と箱には書かれている。ドイツ語でも日常生活では、Dalton seine Peruecken-Schachtelと言ってしまうことがあるようなものである。またWig boxと綴るべきだろう。おそらくこの正書法違反はジェームズ・ドールトンではなく、ホーガースに由来するものであろう。彼の作品にはこの種の不注意がよく見られる。この機会に、この作品中の誤りをもう二つ指摘しておく。肖像画の一方の下はMackではなくMacであり、他方はSacheveralではなくSacheverelでなければならない。われわれは、だが、複製を作る際にすべてを元のままにしておいた。なぜなら、ホーガースのごとき老獪な男は、ここかしこでそれらを使って何かをたくらんでいるかもしれないからである。この巻の最初の作品に出てくるアヒルの首につけられた宛名札は、この種のものであることは明らかである。

**(原注)これらの驚くべき諸民族の物語をまだご存知ない人は、あるいは知っていて、今やこのような民族のところへ行ってみたいという気になっている人は、著名な外科医にして後に船長になったレミュエル・ガリヴァーの旅行記の第四部に有用な情報を見出せるだろう。

 

【この箱の中身、すなわち「かつら」の重要性についても、リヒテンベルクは念入りに説明します。かつらを用いた学生の不正行為にも触れているところは、リヒテンベルクが大学教授であったことを思い出させます】

 ドールトンがこの娘に預けていた物は、とるにたらぬ物ではない。あらゆる身分用の、形、色合いのさまざまなかつらは泥棒の重要な小道具である。それらの一つをかぶると、ある地方のウサギやヤマウズラがそうであるように、夏は畦をつけられた畑か刈りあとの畑のように、そして冬は雪のように見える。あるいは別のを着けて芋虫の姿で略奪し、二つ目のに着け替えて蛹となり、三つ目のをかぶって蝶となって、司法の手をすり抜ける。一週間の間に四つの学科全部の課程をかつらを用いてやってしまって、試験と学位取得にまでこぎつけたという例もある。むろん最後には、後頭部をおおうこの仮面は、実の頭にとって不利な証拠になるだろう。従って、ますますもって天蓋の上に置かれたこの担保は大切なものなのである。

 

【壁にかけられた肖像画についても詳細な解説がなされます。上の原注中に出てきたマックヒースとサシェヴェラルを描いたものですが、ここではその説明は割愛します】

 

【ベッドの帳の結び目についてもリヒテンベルクはいろいろ想像をめぐらせますが、最終的な断定は避けます。解説者のひらめきに関連して、コーヒーの澱をもとにあれこれ予言をたれる占い師を引き合いに出し、結局のところ、ひらめきは解説者に固有のものであり、見る人それぞれが好きなように受け取ればよいのだ、と結論づけます】

 私たちはここで、たいへんに悪賢くも独創的な機知の作り手を相手にしなければならないのである。まさにそのとおりなのではあるが、だからといって人は自分自身の健全な見方を損ねてはいけないし、また物事を紙の上だけの事柄と考えてはいけない。それらの物事はわれわれの鼻先のこちら側で、うつろっているのである。これに関連して昨今の女予言者たちを思い出した。彼女らは針の先を使ってカップの底に残ったコーヒーの澱(おり)をつつきながら、従順な令嬢たちの運命をこう予言するのだ。「ごらんなさい、お嬢さん、ここのこの小さな輪形を。とてもはっきりとしていますね。これは馬車の車輪ですよ。そして、こちらの小さな点々、四、八、十二、十六、二十、二十四、これらは足跡です――ちょっとお待ちなさい――そうですとも、六頭の馬の足跡です。そっと息を吹きかけてごらんなさい。見えるでしょう、こっちは確かに星ですね。ご自分でぎざぎざの数を数えてごらんなさい。ということはですね、お嬢さん、六頭立ての馬車と、そのそばに星、あっ、それからここには・・これは何かしら・・」――しかしne quid nimis(何モノモ度ヲ過サズニ)である。だがこれでもって、注釈者が明らかにみずからの責任においてあえて記した、機知の小さなひらめき――それが本物であるにせよ、見せかけにすぎないにせよ――に難癖をつけているのでは決してない。この点については第一巻に添えた序の中で説明しておいた。このようなひらめきは解説者の固有財産であり、人は好きなように受け取ればよいのだ。肝心なのは、全体に深くただよう気配が意味するところである。全体の意味をホーガースは隠したことは決してなかった。そんなことをしたら彼の損になっただけであろう。全体で何を表現しようとしているかは、一見して明白であるし、またそうでなければならない。そうでなければ、この種の芸術作品は人々に気に入ってもらえない。だが全体の意味がわかったうえでならば、それほど大事ではない難解な細部を明らかにしたいという気持ちによって、鑑賞の楽しみがさらに増すことになる。全体がわかっていなければ、このような楽しみはぶちこわしで、版画は投げ出されてしまうだろう。

 


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