「ある娼婦の生涯」第二図についての解説から


 

【主人公にとって「銀の時代」だ、とリヒテンベルクは第二図の解説を次のように始めます】

これ以上の高みにはパンデムヒェン(大衆の小さなヴィーナス)は舞い上がらない。これが彼女の銀の時代である。ティーテーブル、やかんその他なにもかもが銀でできている。黄金時代はヨークシャーですごした――ただし黄金はなかった。銀の時代はロンドンで、今度は本当に銀製品に囲まれて。こちらの方がずっと価値がある――若い娘にとっては。

 

【主人公は裕福なユダヤ商人の妾になっているのです】

チャータリスにはおそらく捨てられたのだろう(というのもあの男のところでは、娘たちの運命は大きな賭博台の上のトランプ札のようなもので、じきにその手元を離れて別人の手に渡っていくのだから)、今や旧約聖書にその出自をもつ裕福な罪びとの一人が彼女をわがものとしている。この絵の彼女は、ポルトガルの寺院からイギリスへとやって来たユダヤ人の妾である。見てのとおり、男は彼女をユダヤ流のぜいたくで囲っている。すなわちすべてがやや裕福で、時にやや重苦しく、娘についても同じで、やや中古だが、それでもまだ価値がある。

 

【この日、旦那がいつもより早くモリー(主人公の名)のもとを訪れます。折悪しく、ともに夜を過ごした若い愛人がまだ居残っていて、旦那と鉢合わせしそうになります】

 ともあれ、この欺かれた詐欺師は早く着きすぎた。予想はされるが望みはしないところに手形が呈示された具合で、この手形は支払いを拒否されてしまう。勘定場はひどい状況である。娘とともに夜をすごした愛人がまだ居残っていて、とにかく両替えならぬ着替えをさせないと、手形の支払いの件を話し始めることもできない。愛人は背後でズボンをはくのもそこそこに、忍び足でドアの方ににじり寄るが、そのドアはあいにく都合の悪い側に開くようになっている。誘導する小間使いも、口元の様子からすると、こういうことにはまだあまり慣れていないらしい。この退却を隠蔽するために(百戦錬磨の将軍でさえも、勝利を収めるのより倍はむずかしいと考える作戦である)、モリーは自軍の砲兵隊を総動員し、地雷も一発爆発させた。おそらく彼女は話を債務・債権のような方へもっていき、地雷を埋めた地点にユダヤ人が達したその瞬間に爆発が起きた。つまり右足を持ち上げて、ティーポットや茶碗その他もろもろの載った銀のテーブルをひっくり返したのである。ガラガラガッチャーン、黒人の少年と、同じく熱帯出身の猿も身震いし、立ちすくみ、逃げ出す。テーブルがひっくり返るさまを、まず思い描いてみてほしい。そうすればテーブルはきっとひっくり返る。ホメロスの詩に登場する、トロヤの荒れ地での戦闘で持ち主を失ったどんな盾でも、この銀のテーブルほどには大きな音をたてなかったろう。こうして退却は発覚を免れ、愛人はこのポルトガルに出自をもつユダヤ寺院から逃れた。

 

【リヒテンベルクはモリーのわずかに乱れた髪型に注目します。そして、廃墟の魅力について考えをめぐらせます】

 くずれた髪型の方が、型から取り出したばかりのようなそれよりも、きれいな顔をいっそう引き立てるとは、いったいどういうことなのだろう? こういった魅力の根源は、人間の本質の深淵にひそんでいるにちがいない。なぜなら最底辺の女たちでさえも、髪がときにわずかに乱れている方が、あまにきっちり整っているより、多く稼げるようだと感じとっている。ローマの女たちはとっくにこのことを感じていた。むろん彼女らは何でも感じとったものだが。

(中略)

 「娘をこんなにも魅力的に仕立てているものを、おまえはきのうのセットが崩れたものだと思うのか? 哀れなやつ! 今、仕上がったばかりなのだよ」――知ってのとおり、イギリス式庭園にも眺めをさらによくするべく、「廃墟」が「新たに」建設されている。人間の為すどんな壮麗さも偉大さも何世紀も経れば崩れさることに思いをいたらせるのが、そのような「廃墟」の目的である。髪型の崩れの場合も時の経過を一瞬にせよ思わせるが、ただ一晩のうちの神秘的な崩壊の可能性を示すのみである。もっともこのような髪型の崩れは最大限にわざとらしくない感じに仕上げる必要がある。さもないと、すべてがぶちこわしになり、どんなに崩れた髪型が好きな者でも、それがかつらとなったら吐き気をもよおし、ゾッとすることだろう。――「愛する」夫が死んでも喪服を着ないと広報新聞で公表している、善良な若い妻たちを私は非常に嘆かわしいと思う(霊魂とか真理のことではなく、単に喪服のもつ「華」のことを言っているのである)。天にかけて、またご自身のためにも、ご婦人方よ、そんな言明は引っこめてほしい。さもないと何事も起きないだろう。喪服を着た若い未亡人に漂う華やかさは、火災に遭った建物のちょうど焼け残った一番美しい棟が、むろんいくぶん沈鬱にではあるが輝いているありさまに似ていると、古来思われてきた。そして誰しもが考えるように、火事になったとき、もっとも美しくてもっとも良いものを守ろうとするのは当然であろう。未亡人が喪服を着ないと、人々も彼女のために同情せず、そして世の中のすべての、惹きつけたり、惹きつけられたりの関係――そのようにしてすべてが成り立っているのだが――それがもはや力を失い、若い未亡人は同じ年頃の行き遅れの女に成り下がってしまうだろう。これではどうしようもない。少なくとも「廃墟」の強みがまるで生きてこない。「廃墟」の魅力については以上としよう。

 

【モリーは愛人を逃がすために、言葉でも旦那に攻撃をしかけます。彼女のすさまじい様子とそれに対する旦那の反応をリヒテンベルクは次のように解説しています。注で、無口な魚の代弁者としての魚売りの女についても触れます】

モリーの口がたった今言っていること、あるいは言い終わったことを示すのに、われわれにはそれに必要な記号がない。それは楽譜でなければだめだろう。それも少なくとも四オクターヴ分の音域が書けるものが必要だ。このような場合の常であるが、彼女には聞く耳がまったく欠けている。その代わりに口には舌が二枚ある――バイリングス(二枚舌)――ビリングス――ビリングスゲート――ビリングスゲート弁(*)。一秒間に十の罵詈雑言、指をはじいて拍子をとりつつ、電光石火のように。注意せよ! 用心せよ!――こんな稲妻と陶製の雹には! ユダヤ人は、彼の方はどんな様子をしているか? 真似ができないほどユダヤ的に振る舞っている。自分が囲っている美女の発する最高音のソプラノの音程に、それから四オクターヴ低いゆったりとした鼻にかけたバスで合わせているが、これは正しいやり方だ。もしユダヤ人の方も、激しい調子で応酬するなら、第一ヴァイオリンは割れてしまうだろう。男はそれを警戒している。娘は彼の「肉体と愛情の財産目録」に記載された財産の一つなのだから。この朝は収益が上がらなかったにせよ、資本は保護されなければならない。

*(原注)イギリス人あるいはイギリスを知っている人には、この漸層法は理解がいくだろう。ドイツの読者のために少し説明をつけ加えると、ビリングスゲートとはそもそもはロンドンにある魚市場で、その大部分を女が仕切っている。魚売りの女は並はずれておしゃべりで、何者をもしのぐ口達者ぞろいである。口を利くことがどうしても必要なこの世の中で、無口な魚たちは彼女ら以上の代弁者を獲得することはできまい。

 

【モリーがテーブルをひっくり返したので、のっていた食器類が落下します。その様子をリヒテンベルクは擬人法を使って説明します】

 すんでのところでからくも命拾いしたティーカップが、ユダヤ人の右手の中でまだ揺れている。だがその他の物ときたら! 見るのも恐ろしい。どこもかしこも混乱し、状況は危機的だ。なにもかもが、持ち上げられた膝の暴挙を逃れて、生き延びようとしている。砂糖壺と小鉢、それからおそらくミルク入れ、それらがまずは勇気をふるって机の縁から飛び下りた――そして一巻の終わり! 続いて蓋が飛び下り、宙でもう同じ運命を予感している。もう一つの蓋は、見てのとおり、甲板の上を他の物を追い越して逃げようと突進して――そしてやはり同じ運命にある。もっとも沈着に見えるのはティーポットである。死の跳躍を試みる前に、ポットはまず蓋をあらかじめ投げ出して片づけたばかりでなく、それに続いて煮え立つように熱い中身を、ご主人の靴下の中へ、それからさらには靴の中めがけて注ぎ込んだ。蓋を性急に放り出したことから判断して、また人間の皮膚をこのようなやり方でなめし革に仕上げるのはあまりに時間がかかりすぎるので、おそらくポットはおのが最期を迎える前に、中身をぶちまけるべくひっくり返るつもりなのだろう! ポットに話しかけることが許されたなら、私はきっとこう言っていたはずだ。「僕に言わせれば、これはおふざけも度を越しているよ。そのうえこのいたずらは遺言めいているからいよいよひどいんだ。もし君がこなごなに割れずにこの場を逃れることになったら、注意したまえ、君の一巻の終わりのときのいたずらなどにはおかまいなしに、いい加減に破片を貼り合わせられて、あるいは縁のかけたままで使われて、そのたびにこのユダヤ人の召使いの笑い者にされるんだぜ」

 

【モリーが一夜をともにしたのは、仮面舞踏会で知り合った兵士のようです。リヒテンベルクは仮面舞踏会の魅力と危険について述べます】

 右下の隅に置かれているものは、投げ出された仮面舞踏会用のフードつきマントであるようだ。まことに、仮面舞踏会、少なくともロンドンのそれに対するこれ以上の警告はなかろう。このような人間を(アバズレと呼びたいところだ)、まっとうな人間とまったく平等に同じゲームに参加させるなんて、こんな薄い布きれ一枚だけを隔てて! こんなことから何かよい結果が生じるはずがないではないか。われわれは皆、あの世での平等を望んでいる。それをこの世ですでに探し求めることは、どこにおいても、仮面舞踏会用のマントを着たときでも、やはり危険である。というのも平等は、マントが脱ぎ捨てられれば終わりという訳ではないからである。しかしながら、つかの間の幻想の魅力はそのような限界を定めてこそのものなのである。

 


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