「ある娼婦の生涯」第一図についての解説から


 

【主人公の娘の純真さをリヒテンベルクは次のように表現しています。また、ティーンエージャーの少女たちがいかに危うい存在であるかについて、注をつけて述べています】

物語の主人公はヨークシャーのある村の貧しい田舎牧師の娘である。父、娘ともに第一図にその姿が見られる。娘は前景におり、田舎――どこであるかは幌に書かれた文字からわかるが――からやって来たオンボロ馬車から降り立ったところである。父親は背後で馬に乗っている、というより単にまたがっている。娘が立っているその様子といったら! 一見してわかるようにたいへんな美人というわけではない。ホーガースは美人画家ではなかった。事実私の知る限り、彼の全生涯において、彼のことを美人画家と思っていたのは二人だけで、一人は彼自身であり、もう一人は今は亡き彼の妻である。この娘はきわめつきの美には欠けるものの、かなり健康そうで、子供らしい素直さ、感じやすいまでの無垢な様子がそれを補ってあまりある。さらに娘の身のこなしは、見てのとおり、垢ぬけてはいないがきちんとした、行儀のよい村娘の作法である。――そのような村娘から何者かになろうとしているらしい――そして実際そうなるのだ。体つきは女神ケレスとポモナに仕える畑仕事のために、いくぶんがっしりしているようだ。忘れな草やひな菊やスミレなんぞの、恋こがれたときに胸につける花を摘んでいたのだったならば、もっと華奢だったろう。とはいえ娘はまだ十代(*)の成長期で、村の仕立屋が作ったらしいいかにも野暮ったい服が似合っている。

*(原注)She is in her teens.(彼女はティーンズである)と、イギリス人は十二と二十の間の年頃の娘を呼ぶ。なぜならこの間の七つの数字はすべて語尾に「ティーン」がつくからである。サーティーン〜ナインティーン(ドイツ語ではドライツェーン〜ノインツェーン)。英国の名優ギャリックの有名な芝居に『ティーンズの娘』(Miss in her teens)がある。娘の年齢にツェーンがつき(ツェーネン)始める時期は、歯が生え(ツァーネン)始める年頃よりも危険とされている。

 

 娘の服装は、その存在そのままにまさに田舎風だが、そこには嘘っぽいところはどこにも見あたらず、むやみにかさ上げしたり、出っ張らせているところはない。帽子と胴着とネッカチーフが、それらに委ねられたものを、誠実に、見せびらかしたりせずに、可能な限り出費をおさえつつも守り保護するさまは、ミツバチの巣を思わせる。帽子には空っぽの層はなく、胴着には中身の詰まっていない部分はない。帽子の下で安らいでいる小さな顔は黙ったままで多くを語り、それを皆が理解でき、誰に対しても素直で、それそのものであって何の説明も要しない。一方憶測するしかない胴着とネッカチーフの内側のことについては、女神フローラがあらためてするまでもない保証を行って、小さなバラすなわち無垢な乙女のしるしを咲かせている。ここから先、衣服の要塞はありふれたスタイルの三重四重の防御壁をもって下方へ続き、平行に並べられた小さな足に達する。要塞司令官は買収されなくても、わきからは攻め入ることができるかもしれない。――体のわきには針刺しと小さなハサミがぶら下がり、右腕には小さな包みを提げている。泣きながら別れを告げたかわいそうな母親が、道中の手慰みに、元気づけにと娘の腕に通したものであろう。しかしながら、途方に暮れたような腕のしぐさとおずおずした眼差しは、その大半が、今この善良な娘に近づいてきた貴婦人が身につけている高級そうな時計が目に入ったせいなのである。この貴婦人が誰なのか、読者はおいおい知ることになろう。が、まだ無垢について語るべきことがあるので、哀れな父親に話を移そう。

 

【リヒテンベルクは画面左の馬に乗った人物を、娘につきそってきた父親の牧師と考えます。そして、この男のかつらからイギリスの聖職者がかぶるかつらについて連想を展開させます】


 ドイツの人々は、イギリスにおける聖職者のかつら(
The Clergyman's Wig)が何なのかまるでわかっていない。そうではないのか? ――そのとおりだ! 多くの反論があろうが、私ははっきり言おう。ドイツではかつらがそもそも何たるかを人々は全然わかっていない。われわれが持っているのはかつらの標本にすぎない。手短に言うならば、威厳と印象の点で、かつらは彼の地ではまったくのところ老人のひげにあたり、ただ生えている場所が反対なのである。そしてその形は? よろしい、せめて聖職者のそれだけでも描写してみよう。もちろんその花盛りの様子を。リンネ流に。タマネギがどんな花を咲かせるか誰もが知っているだろう。その小さな花は全体で一種の球をなし、背の高い中空の茎の上に串で刺されたように高々としっかりとついている。中空の茎を首だと想像していただきたい。その球の前部から必要なだけ小花を取り去ると顔ができ、上部から必要なだけ小花をつまみとると帽子となり、だが顔も帽子もないと、形も色もそのもののイギリスの聖職者のかつらなのである。滅茶苦茶な妄想なのか、私の詩的天分が「転移」したものかはわからないが、しばしば気持ちのよい夏の夕べに、中空の細い茎をはっきりと見分けられなくなってくると、花盛りのネギ畑がイギリスの教会会議に見えてきてしかたないのだ。

 

【ヒロインが降り立ったところは危険な大都会の、その中でも最悪の場所でした】


 われらのヒロイン、善良で正直なこの村娘は、つまりヨークシャーからやってきて、ロンドンの宿屋鐘亭に降り立ったのである。田舎育ちの健康な小さな植物がもともとの土壌から、ヨークシャーでは知られていない肥料がまかれていたり何千種類もの害虫がうようよしている途方もない庭園のまっただなかに移植されるのである。さらに不運なことにこの娘は、そのあたり一帯で最悪の花壇にあっという間もなく落ち込んでしまった。根づくよりも前に虫が(高級そうな時計を持つ貴婦人のことである)毒針で娘を刺して、すこやかな成長を、少なくとも現世では永遠に損なってしまうだろう。どうしてこのようなことになったのか?

 

【画面右側でポケットに片手を入れて立っている男たちが、田舎出の娘たちをかどわかす極悪人チャータリスとその手下です。まずは手先を使って、純真な娘に接近を試みます】

 六万ターレルの収入のあるこのチャータリスが、うす汚い場末にわざわざ出向いて、娘を運んでくるヨークシャー発の郵便馬車を待ち受けているのだ。背後の男はジョン・グーレイとかいう名前で、チャータリスがたいてい、特に店のために何かを調達するような時には、連れ歩いている一種の猟犬のような存在である。この高貴な二人組の口元にただよう、言い寄るときのような、そして同時に本当に何かを味わっているような実にいやらしい感じは、名誉を愛する勇敢な男なら拳を丸めて、いろいろ確かめるまでもなくすぐさま、そこへ一発お見舞いしたくなるほどのものである。二人組は、しかしながら、自分たちでは娘の純粋無垢にかなわないと感じ、そこで自分たちとこの哀れでうぶな村娘との間に、獲得手段を投入する必要を認めたのである。それがこの貴婦人、年老いた悪賢いおとり用の鳥なのである。この鳥はふだんはせいぜい猥褻な歌を口ずさんでいるくらいなのだが、このような出番になると田舎の自然の森のメロディを歌ってみせ、自由に空を飛び回っていた小鳥をロンドンという籠の中におびき寄せるのである。

 

【海千山千の年増にとっては、田舎娘をたぶらかすのなんぞ赤子の手をひねるより雑作はありません】


 哀れな娘の胸元に指先を近づけ、自分の胸のあたりで彼女は手袋をはずした。なぜなら下心をもって言葉たくみに語りかける人物が子牛の皮をつけていたのでは効果がないからだ。こうして次第にこの哀れな小鳥ちゃんは催眠術にかけられ、いつわりの貴婦人の鳥籠に閉じこめられてしまう。そしてその鳥籠にはチャータリスの囲い地へと続く裏口がついているのだ。こうして、何もかもがだめになる!

 


「ある娼婦の生涯」のトップへ戻る